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第9章⑫

 サイパン島から日本の東京上空まで片道およそ一五〇〇マイル(約二四〇〇キロ)。  爆撃目標を空爆する時間も含めれば、一回の任務で往復十五時間ほどが費やされる。  この日、太陽が昇りきらぬうちに、合計八十六機のB29戦略爆撃機がアイズリー飛行場から出撃した。  二二〇〇馬力の出力を持つ最新鋭のエンジン、ライトR―三三五〇の大合唱は、雷神が上げる鬨の声を思わせる。騒々しくて力強く、そしてこれからもたらされるであろう破壊を高らかに予告していた。  飛行服を身にまとったフレデリック・グラハム軍曹は、『骸骨神父(スケルトン・ファーザー)』号の機体後部、中央火器管制室に設けられた上射手の席に悠然と腰かけていた。頭の上にはドーム状のガラスがはめられている。上方から降下して攻撃してくる敵機をいち早く発見し、照準器におさめるための見張り窓である。だが、今まで東京のある工場を目標とした三度の出撃で、フレデリックが『骸骨神父』号の上に敵影を見かけたのは最初の一度きりだ。そいつは攻撃をしかけるより前に、ほかのB29の機銃掃射を受けて、火だるまになって落ちていった。 「――中央火器管制室へ。異常ないか?」  機内に設けられたインターフォンごしに副操縦士が聞いてきた。フレデリックは対米軍向けの日本のラジオ放送で流れてくる「東京ローズ」の声を真似て、「太平洋のみなしごさんたち、異常ないわよ」と答えた。さらに、 「本日、東京上空は快晴。真っ青な空が広がっているわ。私たちの下からばっちり見えるはずよ。あたしのすべすべした銀色のおなかを見たら、ジャップのボーイたちもお顔が真っ青になること間違いなし……」  フレデリックのふざけた台詞に、搭乗員一同からゲラゲラと笑い声が上がった。離陸して一時間、機内の雰囲気はまだなごやかなものだ。前回の出撃は夕刻だったので、これほどくだけてはいなかったが。陽が沈むと、洋上は反射したわずかな月光が見えるばかりで、あとは真の闇となる。日本の航空機を警戒する以前に、原始的な恐怖が先立って誰しも無口だった。夜間飛行はもっぱらレーダーが頼りだったので、レーダー手は特にピリピリしていた。  フレデリックは半分立ち上がり、ガラスのドームをのぞきこむ。子どもの頃、家の屋根裏部屋に上がりこんでいた時のことを思い出す。はしごをのぼり、小窓のほこりっぽいガラスに顔を押しつけ、外の通りを油断のない目で見張るのが日課だった。その遊びにふけっている間だけは、そばかすに悩む小学生の自分を忘れて、独立戦争の英雄になりきることができた。  今、フレデリックの目に入るのは青空と、そして編隊を組んで飛ぶ銀翼のB29たちだ。航続距離の関係上、援護の戦闘機はつかないが、さして不安はない。爆撃機とはいえ、B29は戦闘機と肩を並べられるほどの飛行能力を有している。操縦士の大尉の腕も、まあ悪くない。もちろん、フレデリックのいとこ「ヴィー」ことグラハム少佐には及ばないが。  グラハムのことを思い出すと、フレデリックの口元がゆるんだ。  『骸骨神父』号の操縦士たちは、任務のこと以外でフレデリックたち射手とあまり口をきかない。尉官と下士官、それに兵士の階級の差は歴然としていて、個人的に親しくしたいと思わない限り、それをあえて乗り越えようとはしないものだ。だが、フレデリックがグラハムと会っていた時はいつもと違った。大尉たちは自らやって来て、紹介されたグラハムに畏敬の眼差しを向けていた。フレデリックも誇らしかった。いずれ硫黄島あたりがアメリカ軍によって占領されれば、航続距離が半分に満たない戦闘機も、東京攻撃に参加できるようになる。グラハムと同じ戦場で戦える日が来るかもしれない。そう思うと、フレデリックは自然と気分が高揚してくるのだった。

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