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第9章⑳
酸素マスクの下で今村の表情がかすかにゆるんだ。日頃、毛嫌いしてきた相手の登場がこの時は、この上なくありがたく感じた。
「――今村だ。聞こえているか、金本曹長?」
「聞こえています」
「先にいた五機全員で攻撃をかけた。だが、墜とせなかった。全員、もう機銃の弾がない。そちらは?」
「松岡は弾切れです。俺は……」
金本は先刻の戦闘を振り返る。二十ミリ機関砲の弾はすでに全弾、撃ちつくした。残っているのは威力が落ちる十二.七ミリ弾だ。
「……残弾はわずかですが、攻撃してみます」
そう言って、今村の返答を聞く前に機体を旋回させた。
金本はそのまま白煙を上げ続けるB29の下へまわりこみ、目をこらした。巨鯨たちの編隊はすでに姿を消している。敵が一機だからこそ、すべての集中力をそこに注ぐことができた。
高度計を確認する。現在、四八〇〇メートル。やや高いが、飛燕の運動性能を十分に発揮できる高さだ。
だが、B29の胴体下部にもうけられた四丁の機銃が、まるで生き物のようにひっきりなしに首をふっている。警戒されている。うかつに近づけない。
――どうする……。
相打ち覚悟でふところに飛び込むか。残っている十二.七ミリ弾だけで致命傷を与えられる保証はない。しかし今、攻撃をしかけなければ、B29はこのまま洋上へ逃れるだろう。
迷う金本の耳元で、無線が入ったのはその時だった。
「――こちら、はなどり隊隊長、黒木だ。今、『かもくじら 』の直上にいる」
金本は頭上を仰いだ。
B29の遥か上に飛燕が一機、浮いている。距離は一五〇〇メートルほどで……。
続く台詞を聞くより先に、金本は黒木が何をしようとしているか悟った。
「今、『くじら』の周りにいるやつら。今すぐ、そこから退避しろ。ぶつかっても、俺は謝らんからな――!!」
言い終えるやいなや、飛燕が機首を下げて、金本たちのいる方めがけて爆速で落ちてきた。
金本はスロットル全開で回避行動にうつった。飛燕の急降下する速度は時速八〇〇キロ。時に九〇〇キロに達する。一五〇〇メートルの距離をゼロにするのに必要なのはたった六~七秒だ……。
その場を離れかけた金本の頭に、ある考えがひらめいた。あとから考えれば無謀と非難されてしかるべきだったが、この時は黒木の執念と闘気に当てられて、いささか冷静な判断ができなくなっていたようだ。
金本は旋回しながら、心のなかで秒読みした。
視界の中で飛燕がせまる。それ自身が、まるでひとつの銀色の弾丸のようだ。
そのまま勢いを殺すことなく、敵の機銃が反応するよりも先に、黒木の飛燕はB29の胴体と左翼の間の空間をなぎ払うように貫いた。すれ違う一瞬前に、十二.七ミリ弾が発射される。斜めに走る弾道で、いくつもの弾がB29の左翼とエンジンに穴を開けた。
そこへ間髪いれずに、金本が前下方から急上昇した。
B29の機銃が、いっせいに金本へ襲いかかる。だが飛燕はひるんで止まることなく、突っ切った。残っていた十二.七ミリ弾を、金本は全てたたきつける。その内の炸裂弾のひとつが、損傷してむき出しになったB29左翼の燃料パイプに食い込んだ。
直後、金本はすさまじい轟音と熱風をともなう衝撃波に襲われた。下から突き上げられた飛燕が、風圧でコマのように回転する。完全に制御不能になる寸前、金本は両翼のフラップを開いて機体を失速させ、かろうじて水平にもどした。
耳の中の鼓膜と三半規管が、持ち主に囂々たる非難を浴びせてくる。頭のふらつきが収まらないまま、金本は下をのぞきこんだ。そこにB29の姿はなく、そのかわりに無数の金属の破片が、煙や炎をまといながら落ちていくのが見えた。何が起こったのか、遅れて金本は理解した。B29の翼に注入されたガソリンが、炸裂弾を受けて一気に燃え上がり、爆発したらしかった。
「……こちら金本。応答を頼む」
金本は無線で呼びかけた。先ほどの爆発に、誰か巻き込まれていないか。特に、いちばん近いところにいた黒木の安否が気がかりだった。
しかし無情にも、無線はうんともすんとも言わなかった。雑音のひとつすらない。どうにもB29に突っ込んだ時かその後に、どこか損傷したらしい。
そして、傷ついたのは無線だけではなかった。
左の足元が濡れて冷たいことに、金本はようやく気づいた。少し動かした途端、ふくらはぎに痛みが走った。
「……こいつは少しまずいな」
服の上から触ると、飛行手袋に血がついた。
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