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第9章㉓

 黒木が金本の病室を訪れたのは、夜もかなり遅い時間だった。  面会時間はとっくに過ぎていた。だが病室の部屋番号を聞いていた黒木は、かまわず裏口から入った。病室のベッドの片方は空で、奥の方に金本がいた。黒木が入って来ても気づかず、こんこんと眠り続けている。  黒木はしばらく立ったまま、その寝顔を見下ろしていたが、やがて、 「…こっちの気も知らないで、気持ちよさそうに寝やがって」  軽く毒づき、ひざを曲げて金本と顔をつき合わせた。  金本から発せられる体温で、ほんのり温かさを感じる。黒木はその頬に指をあてる。金本はよほど深く眠っているのか、寝息のひとつも乱れない。黒木はそれを見て、さらに大胆になった。寂しさを覚えた家猫がぬくもりを求めるように、冷えた自分の両手を布団の中にそろそろと挟む。それから、互いの頬が触れ合うくらいに金本に顔を近づけた。 「……中山のやつが泣きながら怒ってたぞ。『飛燕』もお前も、穴だらけになったもんだから。あとで謝っとけ」  そのあとで目を閉じ、ゆっくり息を吐きだして言った。 「米田が死んだ」  指先で、黒木はシーツを強くひっかいた。 「最初に奇襲をかけた時、B29の機銃にやられるのを今村が見ていた。飛燕の残骸が、爆撃を受けた中島飛行機の工場のすぐ近くで見つかったと、さっき連絡があった。明日、亡骸をおさめて、葬式をする予定だ」  米田一郎伍長。思ったことをすぐ口にしてしまう、あっけらかんとした性格の青年は二十歳の誕生日をむかえる前に人生に幕を閉じた。撃墜された時、操縦席でどんな思いで死んでいったかは、本人以外には永久に分からないままだ。  黒木にとって、身近にいた人間が死ぬのは何もはじめての経験ではない。ニューギニアにいた時、所属していた隊の八割は米軍との交戦で戦死している。一度の迎撃戦で、何人もの仲間が二度と帰ってこないこともあった。  だが、何度経験しようとも――つい先ほどまで存在していた人間が突然いなくなる状況に、何も感じないですまされない。墜落した米田の機体を確認した帰り、金本の入院先に寄ったのも、どうしても確かめずにいられなかったからだ。  きちんと息をしているか。生きているかを。  その時、金本が少しうなって寝返りを打った。起きるかと、黒木は身がまえたが、金本は目を閉じたまま再び寝息を立てはじめた。向けられたうなじの、短く刈り上げた髪を黒木は見つめる。ちくちくとしたその感触が、手のひらによみがえる。  金本に口づけたあの夜の記憶とともに――。 「――蘭洙(ランス)」  黒木は金本の本名を呼んだ。 「いつだったか。お前は俺に『生きていてほしい』と言ったな。同じことを言わせろ。…お前にとって、俺はろくな奴じゃないだろうが。でも、俺にとってお前は特別なんだ」  好きだよと、黒木はしぼり出すような声で言った。 「だから、少なくとも俺より先に死ぬな。お前にいなくなられたら、きっと俺はたえられない」  金本からの返事は、規則正しい寝息だった。もとより安らかな眠りをやぶるつもりはない。黒木は布団から両手を抜いて立ち上がると、そのまま忍び足で病室から出て行った。

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