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第10章① 一九四七年七月
千代田区竹平町にある対敵諜報部隊 司令部の建物、通称「ノートンホール」は接収された当時から怪談話に事欠かなかった。
戦前は東京憲兵司令部が置かれていた場所である。地上四階建てのビルの内部は昼間でも薄暗い。夜ともなれば照明がついていても、廊下のそこかしこの暗がりに何やらひそんでいる……――そんな感覚に陥る者が、少なくなかった。
誰もいないはずの部屋でうめき声を聞いた。首をくくっている人影が窓に映った。日本軍の軍服を来た男が、階段を下りて行く姿を確かに見た――そういう体験談や目撃談が、後をたたなかった。
地下に設けられた資料室も、そんないわくつきの場所のひとつとして対敵諜報部隊 の要員たちに知られていた。間が悪いことに、ジョン・ヤコブソン軍曹はその地下室にいる時に、部屋にまつわる因縁話を思い出した。
同じ部署にいるアカマツという日系二世の少尉がおせっかいにも教えてくれたところではこの十平方メートル弱の空間は、元々尋問部屋として使われていたそうである。
「ほら、そこの壁。変にえぐれてるじゃろ」
ハワイ準州出身のテッド・アカマツ少尉は、U機関のマックス・カジロー・ササキ軍曹と同じ、独特のハワイ英語を使う。
「あれは銃弾の痕じゃ。聞いた話じゃけん、ホンマかウソか知らんけど、昔ここで人が射殺されたらしいで。床に少しじゃけど、血みたいな染みが残っておって――」
…真夏にもかかわらず、ヤコブソンはぶるっと身体をふるわせた。銃弾だという痕も、血だという染みも、本物かどうか見わけはつかない。ただ、この部屋自体、地下にあってジメジメしていて長くいたくないのは確かだった。
元々、お化けだの幽霊だの、その手の怪談話がヤコブソンは大の苦手だ。故郷にいた時は、「でかい図体のくせに」と兄、姉から何度もバカにされてきた。そのたびに、身体の大きさと胆の太さは関係ないと、いじけた思いをさせられたものだ。
たとえ、六フィート三インチ(約一九〇センチ)の身長であっても、怖いものは怖い。
特に今は――。
ヤコブソンは背後に視線を感じた。
ーー……まただ。
もとより、振り返って確かめる気はない。
昼だろうと夜だろうと関係ない。
姿を見せずにそのまま去って行くこともあれば、突然、目の前に立っていることもある。
首から胸まで血で染めて。ガラス玉みたいに無機質な目をして。首の傷口からヒュウヒュウと空気をもらして、サムエル・ニッカー軍曹の幽霊はヤコブソンに言うのだ。
「助けてくれ――」と。
ヤコブソンは必死で、後ろの気配に気づかないふりをした。決して振り返らず、そのまま足早に資料室をあとにした。
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