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第10章②

 同じころ、ヤコブソンの現在の上司に当たる男は、これ以上ないくらい不機嫌な顔でうなっていた。  白髪交じりの黒髪に爪を立て、青灰色の目で机に置かれた報告書をにらむように読み返す。しばらくして、セルゲイ・ソコワスキー少佐はいまいましげにため息をついた。 「――…バカどもめ。いいかげんに、自分たちのやっていることの無意味さに気づけっていうんだ!!」  以前、U機関のダニエル・クリアウォーター少佐にも伝えたK会の急進過激派――自らを「尽忠報国(じんちゅうほうこく)隊」と称している――は、いまだに天皇誘拐計画を諦めていない。定期的に連絡をよこしてくる内通者は、そう伝えていた。 ――…尽忠報国隊と称し、それを指導する田宮(たみや)正一(しょういち)エンペラー(天皇)が東北地方へ御幸なさる八月を期して、エンペラー(天皇)を誘拐するつもりである。少なくとも六~七名が田宮に協力して計画を実行する予定だと昨日、田宮の家で話をしていた。分かる限りでの彼らの名前は……――  英訳された内通者からの報告に、ソコワスキーは三たび目を通す。計画の日時や、実行者たちに関してはまあいい。しかし、肝心の情報を内通者は伝えていない。  エンペラー(天皇)の巡幸には厳重な警備がついて回る。それをかいくぐり、どうやって誘拐を成功させるつもりか、それがまったく記されていなかった。  ソコワスキーはふき出す汗をぬぐい、天井をあおいだ。  正直なところ、誘拐計画をくじく点において、さほど悲観していない。  要人誘拐は暗殺に比べて、難易度が格段に上がる。世界中を見わたしてみても、過去に大統領や首相、また王族が衆人環視の中で殺されたことはあっても、かどわかされた例は皆無だ。  とはいえ、そもそも誘拐を実行させないことが間違いなく最善(ベスト)だ。  誘拐するタイミングや方法が分かっていれば、対策を取るのは容易だ。その時に合わせて警備を特に厳重にすればいい話だ。ただ、それができないとなると――。 「――いよいよ、事前に拘束せねばならんか」  幸い、首謀者である田宮の居所ははっきりしている。それに田宮に従っている人間たちの名前も。今なら、日本警察を協力させれば一斉拘束は可能だ。その際に、こちらに情報を流していた人物の身の安全は、確保する必要があるが……。  ソコワスキーがさらに考えをかためようとした時、ちょうど部下のヤコブソン軍曹が執務室に戻ってきた。 「失礼しま――痛っ」  最後の悲鳴は、身長の高いヤコブソンがドアの上枠に額を打ちつけたことによる。  元々、日本人用のサイズでつくられた建物だ。来て日の浅いヤコブソンは、いまだあちこちの部屋に入る際に、頭をぶつける毎日だった。  「いいかげんに慣れろ」ーーそう言いかけたソコワスキーは、途中で言葉をのみこんだ。  ヤコブソンの額に汗の玉が浮いている。それなのに、顔はまるで冷凍室から出てきたかのように血の気がなかった。 「……そこに座れ」  ソコワスキーは空いているソファを指さした。ヤコブソンが困ったような表情を浮かべる。それを無視し、ソコワスキーが「いいから座れ」と言うと、ようやく大男の軍曹は体を縮こませて腰を下ろした。  

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