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第10章③

 ソコワスキーはひと息ついて口を開いた。 「いいか。この世に幽霊なんぞ、存在しない」 「……」 「何を見たか、聞いたか知らんが。そいつは手前(てめえ)のろくでもない脳みそが動作不良を起こして見せた幻覚か、幻聴だ。実際にはいない――それだけ確信していれば、その内、出てこなくなる」  ソコワスキーは断言したが、ヤコブソンはあまり納得した顔ではなかった。  こみあげてくる苛立ちを抑え、半白髪の少佐はぞんざいに手を振った。 「もう今日は帰れ。午後の残り時間を有効に使って、せいぜい身体を休ませろ。いいな」 「……はい。すみません」  ヤコブソンは悄然と答える。しょんぼりして丸まった背中が、いちいちうっとうしい。  退室しかける部下に向かって、ソコワスキーはうなるように言った。 「そのかわり。明日は朝イチで出て来いよ。お前がいないと、仕事がとどこおってかなわん」  振りかえったヤコブソンが目をパチパチさせる。その姿はどこか大型犬を連想させた。主人から、ちょっとだけ褒められた飼い犬。 「――必ず来ます」  さっきよりほんの少し元気になった顔で、ヤコブソンは敬礼する。  そして出ていく時に、やっぱりドアのところで頭をゴンと打った。  ヤコブソンの姿が見えなくなった後、ソコワスキーは大仰に息を吐いた。  いったい何度目か。クリアウォーターからの頼まれごとを、うかうか引き受けてしまったことを後悔していた。正直なところ、ヤコブソンをどう扱っていいものか、ソコワスキーはつかみかねていた。いまいましい話だが、人を扱うという点ではあの赤毛のむかつく少佐の方が、何倍も長けていた。 「――お前は心の強い人間だ、セルゲイ」  養父であり、警察官であったヤツォク・ソコワスキーは、息子となった少年のことをたびたびそう評していた。 「だからこそ、気をつけなければいけない。世の中の人間の大半は、お前よりずっと心が弱い。一度のひどい経験で、あっけなく道を踏み外す。お前はそんな人間を、必要以上に責めてはいけない――」  ……自分の性格には、どうにも自制がきかない攻撃的な面がある。  そのことを、ソコワスキーはいくつかの苦い経験とともに自覚していた。  養父はそれを「人一倍の闘争心」と呼んでいた。その闘争心のおかげで己を失わずに生きてこられたが、一方で人にうまく寄り添えないことがしばしばだった。 「……本当にやっかいだ」  ヤコブソンは精神的にまいっている。明らかに。  そしてさらに、問題をややこしくしかねないことがある。  ジョン・ヤコブソンは、ダニエル・クリアウォーターと同じ同性愛者だ。本人は周囲にひた隠しにしているが、ソコワスキーは知っている。  他人に話せはしないがーー過去にヤコブソンが好意を持った相手が、よりにもよって当時の上官だったソコワスキーだった。  今はどうか知らない。ソコワスキーでも確認するのに、躊躇することはあった。 ーーややこしすぎる…!  今さらながら、クリアウォーターに文句を並べたい。「人選ミスも(はなは)だしいわ」と。 「――必要以上に責めるな」  ソコワスキーは自らに言い聞かせた。自分が養父のいうような、「強い」人間かどうかは知らない。ただ、ヤコブソンに対してある程度、責任を負っていることは確かだ。  少なくとも、これ以上、精神的に追い込んで、症状を悪化させることだけは避けたかった。

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