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第10章⑤

 田宮は知らない。この時、実は八人目の人間がふすまを隔てた廊下にひかえていた。  ふすまを閉じていても、田宮の声はもれ聞こえてくる。古い柱のそばに腰をおろした人物は身じろぎもせずに、田宮の話の一言一句を聞きもらすまいと耳をそばだてていた。集中しすぎていたせいだろう。廊下の羽目板がきしむ音がして、彼女は初めて人が近づいてくることに気づいた。  急いで立ち上がり、何気なさを装って二、三歩歩く。そこでちょうど角を曲がってきた使用人の男と出くわした。 「ああ、奥さま。こちらでしたか。姿が見えんで探しましたよ」  田宮の妻、千代(ちよ)はつとめて平静さを保って答えた。 「ごめんなさい。汗で化粧がくずれていないか、気になってしまって。奥に戻って、鏡の前でなおしていたの」 「はあ、そうでしたか」 「それで、私に何か用事?」 「お客さま方にお出しする(ぜん)が整いましたので、最後に奥さまに確認していただこうと思いまして」 「…ごくろうさま。すぐに行くわ」  千代はそう言って、男の前に立って台所の方へ歩き出す。背後では田宮の話が続いていたが、その声はすぐに聞こえなくなった。  集まった客たちは夕方近くになって、ようやく帰って行った。  玄関に出た千代は、田宮の後ろでひざを曲げて彼らを見送る。その時に、さりげなく顔ぶれを確認した。前回見た顔が一人欠けているが、あとはいつもと同じ面々だ。千代は彼らの名前を思い起こして、頭に刻み込んだ。  できれば、すぐにでも先ほど耳にした話と一緒に紙に書き留めておきたかった。  しかし、奥の自室に戻ってすぐに、夫である男が乱暴な足取りで入ってきた。  田宮のむっつりした顔を見て、千代は身を固くした。その強張った顔に、田宮は野卑た太い声を投げつけた。 「おい。お前、また客に色目を使っただろう」 「……そんなことは、ありません」 「いいや、使った。まったく、とんでもない淫売だな」  言い放つや、田宮は千代の結った髪をむんずとつかんだ。千代は恐ろしかった。だが、涙は流さない。泣けば興奮した夫の暴力が、いっそうひどくなるとずいぶん前に悟っていたからだ。 「石女(うまずめ)のくせに淫売ときている。まったく、救いようのない女だな。感謝するんだな。優しい俺だから、お前を離縁もせずに家に置いてやっているんだ――」  一語一語、杭でも打ちこむように強調し、二十近くも若い妻をいたぶる。田宮は歪んだ笑みを浮かべ、千代を畳の上に押し倒した。そのまま、鶏の羽根をむしるように着物をはぎとる。千代はなされるがままだ。ただ、薄暗い天井を見つめ、苦痛でしかない時間がなるべく早く過ぎ去ることを祈り、耐える以外になかった。

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