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第10章⑥

 …行為のあと、田宮はそのまま行き先も告げずに屋敷から出て行った。  どこに行こうと、千代は関心がない。どうせ飲みに行ったか、なじみの女のところだろう。それより、夫が戻って来るより前にやっておかねばならぬことがある。  千代は痛みが残る身体をふるい起こし、着物を身につける。それから台所へ行って、使用人に告げた。 「悪いけど、気分がすぐれないの。しばらく誰も、部屋に近づかないでちょうだい。夕食はあとでいただくから」  部屋へ引き返した千代は、化粧道具をしまった鏡台の奥から、隠していた紙と万年筆を取り出す。姿勢を正すと、練っていた文章を次々と書きだし始めた。 「――本日も田宮は会合をひらく。いよいよ(エンペラー)を誘拐する決意を固め、八月七日から十日の内に岩手県K農場内で実行に移す由――」  万年筆を動かす内に、千代の沈んでいた心は次第に晴れてきた。  あと少しだ。あと少しで、あの男は千代の視界から消える。やっと解放されるのだ。  …田宮正一のもとに後妻として嫁いで八年。思い返してみても、いい思い出はひとつもなかった。  田宮は初夜から今日に至るまで、ずっと千代を肉体的にも精神的にもいたぶり続けてきた。嫁いだあとで知ったことだが、田宮の先妻は十五年ほど夫の暴力に耐えた末、最後には庭の井戸に身を投げた。千代も何度、同じ道をたどろうと考えたか。だが、あんな男のせいで自分の人生がみじめに終わることを、どうしても許せなかった。  日本が戦争に負けた後、ようやく千代に運がめぐってきた。  田宮は占領当初からGHQに目をつけられていた。戦中K会に所属し、さまざまな形で「愛国活動」を行っていたからだ。とりわけ、この地に陸軍が秘密裡に飛行場を建設する計画を立て、地主だった田宮に協力を求めて来た時は、涙を流さんばかりに感激し、人夫を集めて建設予定地に送る手伝いをしていた。  そういった過去があるにも関わらず、戦後、田宮は愚かにも身をつつしむことなく行動を先鋭化させていった。千代は夫の行動を、自分からすすんで当局に知らせた。最初は地元の警察に、それからまもなくGHQの一部門である対敵諜報部隊(CIC)がその相手となった。  夫を裏切っているという罪悪感はそこにない。むしろ自分がつむぐ一言一句が、田宮を破滅へ追い込んでいるのだと思うと気分がよかった。陰湿な情熱をかたむけて、千代は密告をし続けた。  その努力がようやく報われようとしていた。  翌日。田宮が朝寝をしている間に、千代は書き上げた手紙を投函するため、いちばん近い町の郵便局へ出かけた。うまくいけば、夫が起きるより先に屋敷に戻って来られる。仮にそうならなくても、実家の両親へ中元の品を送りに行ったと言い逃れするつもりだった。  ところが、郵便局で速達の手続きをしていた時、なんとも間の悪いことが起こった。  窓口で料金の計算をしてもらっていた時だ。千代の隣の列に、若い男がやって来て並んだ。ふとそちらに目をやって、千代は息を飲んだ。男の横顔に見覚えがあった。昨日、屋敷に来ていた田宮の「同志」の一人。その中でもいちばん年若い青年に違いなかった。  千代の視線に気づいたのだろう。青年がこちらを見る。運悪く目が合った。  しかもその時、窓口の局員が、千代のいちばん聞かれたくない台詞を口にした。 「奥さん。東京までの速達で、間違いないですね」 「え、ええ……」  千代は青年から目をそらした。心臓が早鐘のように鳴り出す。局員が告げた料金を払い終えると、逃げるようにその場から離れる。  外に出たあともしばらく動悸が止まらなかった。  あの青年は自分に気づいただろうか。昨日の今日だ。顔を覚えられていてもおかしくない。田宮の妻が東京へわざわざ速達で何を送っていたか、不審に思っただろうか。ひょっとしたら、送り先の住所まで見られていたか。もし、田宮にこのことを告げ口されたら――。  千代はその場に立ちつくす。どうにかしなければ。意を決すると、今度は急いで来た道を引き返した。

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