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第10章⑦

 千代が郵便局の前まで戻ってきた時、ちょうど中からあの青年が出てくるところだった。 「ちょっと、お待ちになって!」  千代に気づいた相手が、驚いた顔で足を止めた。 「あの……」  近づいていって、千代は困った。覚えていたはずの相手の名前がとっさに出てこない。他のことは思い出せるのに――。  青年は田宮と千代が暮らす村の、隣町に住んでいる。戦中は航空兵として、戦闘機に乗っていた。  千代は終戦間際に彼と一度だけ会ったことがあった。例の、田宮が建設に協力した飛行場に、特攻兵としてやって来た青年を慰問したことがあったのだ。もう二年も前の話だ。  あの時、同じ立場の若者に何人も会ったが、この青年のことはとりわけ記憶に残っていた。理由は、今も彼の首に残る傷跡だ。戦闘中に米軍の機関銃で撃たれたという。奇跡的に助かったが、青年はそれ以来、二度と声を出せない身体になってしまった――。  そういうことを思い出して、千代は急に今まで抱いたことがなかった後ろめたさを覚えた。  田宮が裁きを受けるのは、全くかまわない。だが、目の前の若者はどうだ? 彼が敵であったアメリカ人たちを今も憎んでいるは当然のことである。その憎しみを、田宮にいいように利用されていることに気づいていないだけで――。  それでも、千代は自分の密告行為を、田宮やこの青年に知られるわけにはいかなかった。 「…あなた、うちにいらっしゃったお客さまですよね」  千代は言った。 「どうかお願いがあります。今日、私がここに来て手紙を出したことを、どうか黙っておいてもらえますか。夫の田宮に知られると、その……色々と(さわ)りがありますので」  懇願する千代を青年はじっと見つめる。黒い眼からその心の動きを読むのは難しかった。  ややあって、彼はかすかにうなずくと、自分の口元を見ろと言うように指さした。  唇をゆっくり動かし、その動きで青年は千代に伝えた。  ――言いません――  千代はほっと胸をなでおろした。 「ありがとうございます」  千代は頭を下げた。本当ならそのまま、別れるのがいちばんだ。そうと分かっていながら、青年に対する憐憫の情から言わずにはいられなかった。 「できたらうちにいらっしゃるのは、もうおやめになった方がいいわ」  とまどう相手に千代は真摯に告げる。 「田宮は、あなたが思っているような立派な人間ではない。ただ身勝手で、自分を誇らずにいられないだけの愚かな男よ。あの男の起こす面倒ごとに、あなたのようなお若い方が巻き込まれる必要はないわ。せっかく戦争を生きのびたのですもの。どうか、これからのご自分の身を大切になさってください」  言いたいことを言い切ると、千代はもう一度、頭を下げて歩き出した。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー    ……千代の後ろ姿が見えなくなるまで、男はその場にたたずんでいた。  今しがたのやり取りを思い返す。どうにも、彼女がこの町の郵便局まで来たのは、なにか夫に知られたくない用事のためだったらしい――そう結論して、彼はようやく緊張をといた。  田宮の妻は見るからに自分のことで手一杯の様子だった。  あれなら、こちらがどこに封書を送っていたか住所を見る余裕などとてもなかっただろう。  歩きながら、青年は千代のことを考える。  二年ほど前に会ったことなど、彼女はとうに忘れてしまっているだろう。だが、こちらは覚えている。あの頃は毎日、朝から晩までむくつけき男ばかりに囲まれた生活だった。しかも、いつ出撃を命じられるか分からない日々だ。自分で望んで特攻に志願はしたが――明日、死ぬかもしれないという時に会った女の顔は、なかなか忘れられないものらしい。  田宮の屋敷で彼女を見つけた時は、妙な縁だと思ったものだ。 ――田宮は、あなたが思っているような立派な人間ではない。  千代はそう言った。青年はそれに完全に同意したい気分だった。  言われるまでもない。田宮の思想に、これっぽっちも共感などしていない。近づいたのは、ほかに目的があったからだ。  青年は、先ほど出してきた手紙のことを思い出す。  茶封筒の上には東京の住所と、宛名が記してあった。  金本勇(かなもといさみ)様、と。

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