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第10章⑧

 その日の午後、クリアウォーターは警視庁の吉沢刑事から受け取った報告書を、改めて読み返していた。小脇順右の妻に対して行われた尋問をまとめたもので、昨年二月、小脇順右のもとへ押しかけた元航空兵たちに関する情報が含まれていた。  小脇のところへやって来た航空兵は四人。年齢はいずれも二十歳前後で、年かさの者でも二十五歳をこえているようには見えなかったという。「いずれも若かった」というのが、小脇の妻が抱いた印象だ。あいにく時間が経ちすぎているせいで、彼らの容貌に関して彼女が記憶していることは決して多くなかった。  ただ四人のうちの一人については例外だった。  その男は首に航空兵の証の白い絹のマフラーを巻いていたのだが、それを外した時、首にひどく目立つ傷があったという。ほかの三人がしきりに小脇の居所について妻に問いつめているあいだ、彼はにらんでくるばかりで、まったく口をきかなかった。さらに三人とやり取りをする時も声を出さなかった――出せなかったようだ、と……。  クリアウォーターはあることを思い立ち、電話の受話器を上げた。いくつかのやり取りを交わした末、十五分ほどで目的の人物を電話口に呼び出すことに成功した。 「――首に傷があって声が出ない、二十歳(はたち)すぎの男を探しているだと?」  聞き返してきた相手に、クリアウォーターはさらに言った。 「ああ。それからその男は元々、日本の帝国陸軍の航空兵だった。終戦直後に航空服でうろついていたかもしれない。もし心当たりがあれば教えてほしいんだ、莫後退(モーホウドゥエイ)大人(・ダ―レン)」  クリアウォーターは慇懃(いんぎん)に頼んだ。  莫後退――現在、東京の裏社会において最大規模の勢力を持つ華人系黒帮(マフィア)白蓮帮(パイリェンパン)」の頭目は「ふうむ」とうなった。  今年四月に起こった旧日本軍のスパイ「ヨロギ」にまつわる事件の折、クリアウォーターは旧知だったこの人物から様々な情報を得た。  一方、莫後退もアメリカ軍の少佐に関わったことで、少なからず恩恵を受けている。  当時、裏社会でライバル関係にあったヤクザ組織「若海(わかみ)組」の頭目、若海義竜が殺害され、その後、組織が占領軍の一斉摘発を受けて事実上崩壊した時、莫後退はいち早く動いて、若海組の勢力下にあった「シマ」――有楽町と上野を手に入れるべく行動を起こした。  それから三ヶ月。クリアウォーターのところに届いている話では、すでに上野は七割方、「白蓮帮」の支配下に入ったという。ただ、有楽町の方は別の日本人ヤクザとの間で水面下の抗争が継続中とのことだ。  莫後退は現在、五十代前半。若い頃、阿片におぼれて棒きれのようにやせ細ったこともあったというが、今のでっぷりした身体つきから、その当時をしのぶのは難しい。ただ、緩慢な動きをする肉体とは裏腹に、頭脳はきわめて明敏だ。  この時も、クリアウォーターにすぐに聞き返した。 「元航空兵と言ったが。お前が探しているのは、『特攻くずれ』の連中か?」 「さすが、鋭いね」 「GHQが特攻くずれに何の用だ? またぞろ、アメリカの軍人を狙ったテロでも起こったのか?」 「いいや」  クリアウォーターは言下に否定する。 「ただ、問題の人物は東京で起きたある事件への関与が疑われている。それで探しているんだ。もし彼が過去か現在に、都内の闇市(やみいち)に出没していたなら、あなたに聞けば正体を突き止められるかもしれないと思ってね。協力してくれれば、相応の謝礼はする」 「別に金には困っていないがな」  莫はケラケラと笑い声をあげた。 「いいだろう。知っていそうなやつらに聞いてみてやる。こちらとしては、お前とは末永(すえなが)ーい商売を続けたいと思っているからな」 「助かるよ」 「結果が出しだい、また連絡する」  莫はそう言って電話を切った。  せり出した腹の中で、白蓮帮の頭目は素早く算段を練る。まもなく腹心のひとりを呼ぶと、いくつかの店と情報通の人物の名前を挙げて、先ほどクリアウォーターの言っていた特徴を持つ男について、聞き込みを行うように命じた。 「それにしても。元航空兵とな……」  ひとりごちて、莫はふとある男のことを思い出した。  神戸に『永平公司』という、主に海産物を扱う貿易会社がある。  経営者は孫啓安(スンチーアン)という台湾出身の華僑で、莫後退とは旧知の仲だ。その長男が以前、陸軍の航空部隊で働いていたはずだ。  立ち去ろうとしていた部下を引き止めて莫は尋ねた。 「たしか『永平公司』の息子が一度、ここに来たよな。戦争が終わった年の年末ごろだったか。神戸までの汽車賃さえ心許ないっていうもんだから、金を貸した覚えがある。名前は――孫日登(スンリードン)だったか」 「おっしゃる通りです」  部下は答え、その金について、すでに父親の孫啓安が礼の手紙をつけて返したことをつけくわえた。 「その時に立派な干しアワビもくれましたよ」 「そうか。ついでだ。孫啓安のところにも電話してくれ。その息子と話しておこう」  莫は指示した。その試みは、残念ながら報いられることはなかった。  久方ぶりに莫と電話で話をした孫啓安は知人と旧交を温めたあと、ため息交じりにこう告げた。 「息子の日登は戻ってきて、またしばらくして出て行ったよ。まったく、どこで何をしているんだか。いいかげん、腰をすえて将来を真面目に考えてほしいんだが……」

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