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第10章⑩

 クリアウォーターは旧第一生命ビルに到着すると、すぐに資料閲覧室へ向かった。  あらかじめ連絡を入れておいたおかげで、入室手続きはスムーズに済んだ。現れた案内の司書が、赤毛の少佐を室内の一角に設けられたカードボックスの前に導く。ここに保管されている数万点にのぼる著作や報告書はすべて、著者とタイトル、そしてキーワードによるカードが作られている。 「必要な資料について、カードの内容をメモしてお持ちください」  慇懃に説明する司書は、まだ若い黒人兵だ。  閲覧室を何度も使ったことがあるクリアウォーターは、すでに彼と顔見知りだった。 「ありがとう。デイヴィス軍曹」 「…どうぞ、ごゆっくり。私はあそこの机にいますので」  クリアウォーターから目をそらし、チョコレート色の肌を持つ司書は、自分の棲み家にもどっていった。すなわち、彼が愛してやまない古典文学の世界に。今日も机の上にはギリシアの有名な叙事詩『オデュッセイア』が、文学好きの軍曹に読まれるのを待っていた。  デイヴィスが去って行くと、クリアウォーターはさっそく目星をつけていたキーワードで検索をかけた。  沖縄戦。航空機。日本軍機――。  引き出したカードの情報を書きとめ、七、八点たまったところでデイヴィスのところへ持っていく。デイヴィスはごく短時間で、クリアウォーターが請求した資料を出してくれた。  閲覧者用の机で、クリアウォーターはそれらに目を通した。  戦争中、連合軍翻訳通訳部(ATIS)の情報将校として、クリアウォーターはオーストラリアのブリスベン、さらにフィリピンのマニラなどに駐留し、その後、日本へやって来た。日本の陸海軍の航空部隊や、さらに末期に敢行された「特別攻撃」について、ある程度、知識は持っている。それでも今、自分が追っている事件の背景を探る上で、十分ではないと感じていた。だから一度、時間を割いて戦中に日本の敵であった連合軍――特にアメリカ側がまとめた情報を、改めて把握しておきたかった。  ところが、十冊以上のファイルや製本された資料群に目を通し、クリアウォーターは失望せざるを得なかった。保管してある資料のほとんどが、無味乾燥な数字やデータの集合体に過ぎなかったからだ。  たとえば日本軍機に関するある資料は、機体の諸元や性能について詳しく記しているものの、それが実際にどのように運用されたかについてはまったく記していない、といった具合だ。  無駄足だったか――一時間ほどして、そう感じ始めた時だ。クリアウォーターはある資料に行き当たった。それはタイプ打ちされた、上下二冊からなるかなり大部なもので、緑色の厚手の表紙にはこう印字してあった。  『パイロットたちの目に映ったもの:日本の航空機の戦術(一九四四―一九四五)』  目次を一瞥(いちべつ)し、クリアウォーターは探していたものを見つけたと思った。  上冊は一九四四年から翌年にかけてアメリカ陸海軍の将兵が実際に経験した日本の航空隊との戦闘について詳しく解説しており、下冊はアメリカ陸軍の航空部隊に所属するパイロットたちの証言集であった。とりわけ、日本側によって行われた「体当たり攻撃」――航空機による特別攻撃について多くのページが割かれていた。  クリアウォーターは上冊を読み進め、興味を持った記述については、引用されている後半の証言部分もあわせて読んだ。七割ほど読み進めたころ、デイヴィス軍曹がやって来た。 「申し訳ありませんが、少佐。まもなく閉室時間です」  言われたクリアウォーターは自分の腕時計を見て驚く。時計の針は、すでに午後七時前を指していた。すっかり熱中して時間を忘れていたのだ。  クリアウォーターは残りのページの厚みを確認し、それから司書を見上げた。 「…軍曹。ダメ元で聞くが、資料の持ち出しは――」 「ダメです」  デイヴィスは即答した。閲覧室にある資料はすべて禁帯出である。 「いかなる方でも、例外は認められません」  チョコレート色の顔に浮かぶ厳粛なる表情は、まさに図書の番人にふさわしかった。  続きが読みたければ、またここに来るしかないようだ。だがあいにく、明日もその翌日もすでに日中に尋問の予定が入っている。週明けに来た時のために、クリアウォーターは取り置きを依頼することにした。  そのまま本を閉じようとした時である。偶然、上冊の序文の一節が目に入った。 「――日本軍との戦闘を実際に経験したパイロットに対し、インタビューを行い、その証言を記録する。この地味だが実ははかりしれない有益な提案をしたヴィンセント・E・グラハム少佐自身、P―51を駆って日本の戦闘機を数多く撃ち落としてきた撃墜王(エース)だった――」  そして文の末尾に、この資料の編者であろう人物の名前が記されていた。  「エイモス・ウィンズロウ」と。

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