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第10章⑲

 クリアウォーターの予想に反し、トノーニ・ジュゼベ・ルシアーノ・フェルミ伍長は二時間弱の航空機鑑賞を存分に堪能したようで、上機嫌で帰路についた。 「写真やスケッチができない時は、ジョン・ヤコブソンの記憶力がうらやましくなるよ」  帰りのジープの中でフェルミは言った。 「一回見れば、あとから全部思い出せるんだから」 「そうだね」 「…新しい部署で、元気にしてるといいな」  フェルミがぽつりとつぶやく。ヤコブソンがどうしてU機関を去ったのか、フェルミは事情を知っている数少ない人間だった。  セルゲイ・ソコワスキー少佐からは、直接会ったあの日以来、特に連絡はない。あまりしつこく様子を尋ねるのもどうかと思い、クリアウォーターは静観していたが、折を見て連絡を取ってもいいだろう。 「トノーニ・ジュゼベ・ルシアーノ・フェルミ。それで、このあとどうする? 君は二時間、飲まず食わずだったし、どこかに寄って軽く食べるか、一杯飲むかい?」 「ううん。今日はまっすぐ帰る……っよ」  路面の石に乗り上げたようで、ジープが軽くバウンドする。かぶっていた狐の面が飛びそうになり、フェルミは慌ててそれを押さえた。 「早く自分の兵舎にもどって、やっておきたいことがあるから」 「了解した」  何をするつもりか、クリアウォーターはあえて聞かなかった。  飛行場内は軍事機密につき、スケッチや写真は禁止――しかし、現場から離れた場所で紙に描くのはグレーゾーンだろう。描いた絵をフェルミが個人的に楽しむだけなら問題あるまいと、クリアウォーターは判断した。  U機関がある荻窪から、そう遠くない兵舎の前でクリアウォーターは部下をおろした。 「今日は助かった。改めて、礼を言わせてくれ」 「いいよ、これくらい。ぼくも飛行機をたくさん見れて楽しかったよ」  スケッチブックを抱え、フェルミは屈託なく笑った。 「それじゃ、また月曜にね」 「ああ。君も、いい週末を」  エンジンをふかして、ジープが走り去る。兵舎の入口に設置された灯りの下で、フェルミは車影が見えなくなるまで見送った。  それから、おもむろにポケットに手をつっこんだ。十分な数の小銭があることを確かめると、狐の面をかぶった青年はそのまま兵舎には入らず、電話が置いてある一番近い店までひょこひょこと歩いて行った。 「――というわけで。ダンと例の細長い大尉の人と、あともう一人、レーダー手って言っていたかな。その三人で二時間くらい、お酒飲みながら真面目そうな顔で話をしてね。そのまま別れて帰って来たんだ。何も怪しいところはなかったから、安心していいよ」 「……ああ、そう」  フェルミから一通り話を聞かされたカトウは、ほっと息をついた。  寮の一階にある年代物の電話の前に、カトウはいた。明日は土曜日だが「通訳の仕事がある」と翻訳業務室の面々に断りを入れ、早目に飲み会の席から抜けて曙ビルチングに戻って来ていた。だが、仕事は表向きの理由だ。  本当は――今夜のクリアウォーターの動向を伝える、フェルミからの電話を受けるためだった。  ……今晩、クリアウォーターが調布飛行場で人に会うこと、そこにフェルミが同行すると、カトウが知ったのは、退勤時間間際のことだった。フェルミの口から、直接聞いたのである。  調布飛行場――その地名に、カトウはある人物のことを連想せずにはいられなかった。  麦わら色の髪をした、妙に手足が長くてなれなれしい、クリアウォーターの元恋人。  フェルミを問いつめると、会う相手はやはりエイモス・ウィンズロウ大尉であると判明した。カトウは混乱した。もしクリアウォーターの目的が密会なら、フェルミを連れて行きはしないだろう。案の定、現在、調査中の案件でウィンズロウに意見を求めるためだと分かった。しかしーー。  「やましいことはなにもない」と頭で分かっていても、カトウは完全に疑念を払うことができなかった。そんな内心が、よほど情けない表情になって顔に出たのだろう。フェルミの方から「終わって帰ってきたら、どんな感じだったか電話しようか?」と言われて、そのままうなずいてしまった。  そして今、やっぱり仕事目的で会っていたと分かった。  こうなると、カトウはクリアウォーターを疑ったことが、逆に恥ずかしくなった。

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