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第11章③

 黒木が言い終えると、テーブルの間に沈黙が降りた。  この場にいる誰もが思いもしなかっただろう。一介の大尉に過ぎない青年が、これほど過激な――今の陸軍の方針とまっこうから対立する主張を述べるとは、完全に予想外の事態だった。黒木に発言を許した高島中将でさえ、口を閉じたままアゴをさすっている。次にどのように話を進めてよいものか、考えあぐねているようだった。  一人の参加者が発言を求めたのは、そんな時だった。先刻、黒木にトゲのある視線を向けた人物のひとりだ。男のやや垂れて飛び出しぎみの両目と横に広い顔の輪郭を見た黒木は「カエルみたいな(つら)だな」と、ぶしつけな感想を抱く。その一方で、相手の顔に既視感を覚えた。  進行役の将官が男に向かってうなずいた。 「よろしい。発言したまえ、小脇少佐」  そのひと言で、黒木は思い当たった。つい数ヶ月前、航空本部での会議で中身のない熱弁を得々と振るった男ーー大本営報道部所属の小脇順右少佐だった。  立ち上がった小脇は、例によってその場の視線が自分に集まるのを待った。  それから着席している黒木に向かって、 「なさけない」  さげすむように言い放った。 「おそれ多くも天皇陛下がおわす帝都の空を守る航空兵が、かように惰弱であろうとは。開闢(かいびゃく)以来の大難において、ちっぽけな己が命を惜しむような卑怯者は、はなから必要ない。日本男児として恥を知れ!!」  小脇特有の、大上段からの厳しい物言いであった。空気を震わせ響きわたった声は、ただそれだけで聞く者を威圧し、黙らせるのに十分な効果を有していた。  しかし、今回ばかりは相手が悪かった。小脇が相対した青年は、その外貌も中身も「平均」や「通常」から、大幅に逸脱している男だった。  黒木は席を蹴り飛ばして立ち上がった。文字通り蹴ったために、倒れた椅子が背後の壁にぶつかって派手な音を立てた。そしてーー。 「だまれ、カエル男」  発言の許可も得ずに、黒木は自分より階級が上の小脇に罵言を浴びせた。 「こちとら、B公(ビーこう)(※B29の俗称)相手に、エベレストより高い高度に上がって戦ってるんだ。機銃の弾が嵐みたいに飛び交う中、敵機にかじりついていく連中が、命を惜しんでいるだと? 頓珍漢(とんちんかん)も、たいがいにしろよ。しゃべるたびにアマガエルみたいにふくらむ(つら)やのどに風穴開けて、音が出ないようにしてやろうか、コラ」  黒木は今まで誰もなしえなかったことをやってのけた。小脇の舌を、こおりつかせたのである。大本営報道部の少佐は、黒木に人差し指をつきつけて何か言おうとしたが、あまりの無礼な物言いに、口をパクパクと開閉させるばかりだった。  その様子を見た黒木は、口元をゆがめて毒のこもった笑みを浮かべた。 「どうした、酸欠の出目金(でめきん)みたいになって――前に、てめえの話を聞かされた時も思ったが。安全な場所に引っ込んでいられるやつほど、威勢のいいことを言うよな。どうしてか、教えてやろうか? ーー苦痛や恐怖と無縁だからだよ。いっぺん空に上がって、死にそうな目に遭ってみろ。そうしたら、むやみによく回るその舌も、少しはおとなしくなるだろうよ」  黒木は底光りする大きな瞳を、冷ややかにすがめた。 「…今度、『飛燕』の搭乗員たちを卑怯者呼ばわりしてみろ。本気で、その口――」  黒木が続きを言うより先に、白い湯飲み茶わんが彼めがけて飛んできた。  小脇が怒りのあまり、投げつけたものだ。人より何倍も動体視力に優れた黒木は、軽く体をひねっただけであっさり避ける。と同時に、机の上に置いてあった重い文鎮をつかんだ。  茶碗が壁に当たって砕け、生ぬるい茶が飛び散る。その直後、黒木の手から投じられた五百グラムの鉄のかたまりが狙いあやまたずに、小脇の顔面にめりこんだ。ぎゃっ、という悲鳴が上がり、少佐の鼻から血が噴き出す。その光景を前に室内は騒然となった。  鼻をおさえて喘ぐ小脇に、周りの者が手をさしのべる。何人かは毒蛇を見るように、怖れと嫌悪のこもった目を黒木に向けた。 「ーー今すぐこの場から去れ、黒木!!」  対面に座っていた戦隊長が、語気鋭く言いわたした。  現状はもう取り返しのつかない破局を迎えている。それでもこれ以上、被害の拡大を防ぐために、台風の目となっている男を一秒でも早く退去させるべきだと、とっさに判断したのだ。それは正しかった。  黒木はといえば、こちらもすでに興奮が半ば冷めていた。そして周囲の反応を見れば、もはや当初の目的を達することが絶望的であると理解せざるを得なかった。  「はなどり隊」の隊長は肩をいからせたまま、戦隊長を一瞥する。  それから無言でその場をあとにした。

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