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第11章⑩

 遺書を書いておくように――戦隊長からそう言いわたされたものの、黒木は気が進まなかった。ほかの特攻隊員は家族に宛てて、何かしらのものを残しているようだった。黒木にも血縁者はいる。しかし、用意した紙と筆記具を前にしても、言い残すことなど思いつかなかった。  父親の妾だった母が死んでまもなく、黒木は父親に引き取られ、朝鮮から日本へ渡った。だが、父の本妻と娘たちは黒木の存在を受け入れたわけではなかった。  新たな住まいとなった広い屋敷の中で、黒木は義母と異母姉妹から空気のように無視された。そうされて、かろうじて同じ空間にいることを許されたのだ。男だったから、まだそれくらいで済んだのだろう。もし女だったら、いじめ抜かれていたと思う。  黒木の方でも、彼女たちとはずっと距離を置いてきた。それは今も変わっていない。姉のひとりが麻布住まいの軍人に嫁いでいたが、そちらを訪ねたことも一度もなかった。  黒木は下宿先に置いてある私物を思い浮かべた。大半はなくなっても構いはしないし、いずれ誰かが適当に処分してくれるだろう。  ただひとつだけ、気がかりなものがあった。  今まで、あちこちで手に入れて貯めこんできた植物の種だ。朝顔や向日葵(ひまわり)といった、ありきたりなものから、大陸の蓮や牡丹、さらに南方からこっそり持ち帰ったオオハマオモトの球根などもある。すべて、あの引き出しがたくさんついた収納箱に入れてあった。  航空士官学校を出てから文字通り、地に足がつかない生活が続いてきた。いつもどこかを飛び回っていた。そのことに不満はない。けれども心の片隅で――いつか落ち着く場所を見つけることができたら、集めてきた種をまいて、じっくり育ててみたいとも思っていた。  どの季節にも花があり、そして次の季節に咲く花を心待ちにする生活ーー悪くない。  もっとも、もう実現する見込みはないが。  あの大量の種子が芽吹くことなく捨てられるのだけは、惜しいと感じた。  かといって、譲る相手がいるわけでもない――その時、一瞬、金本のことが浮かんだ。  植物の種を集めていることを、黒木はほとんど人に話したことがない。金本は数少ない例外のひとりだ。  けれども、少しして黒木は「やめておこう」と考え直した。金本は花の名前もろくに知らない。興味がないものを押しつけられては、迷惑だろう。何より――。 「あいつ、育てる途中で枯らしそうだしな」  それはいかにもありそうなことだった。困惑する金本の姿が、容易に目に浮かぶ。  黒木はくつくつと笑って、持っていた安物の万年筆を放り出した。  結局、誰に対しても何ひとつ、書き残さないと決めた。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー  「はなどり隊」のほかの搭乗員たちもそうだが、この一ヶ月、金本はずっとピストで寝泊まりする生活が続いてきた。緊張や疲労もあって、その頃は寝てもほとんど夢を見なかった。  ところが、入院という環境の変化で一時的にでも気がゆるんだのだろう。日中、まどろんでいる時に久方ぶりに夢を見た。怪我をして入院するという、六年前のあの時と似た境遇が、金本の心理になんらかの影響を与えたのかもしれない。  よりにもよって、兄の光洙(グァンス)が現れる夢だった。  夢の中で、光洙は昔ながらの白の朝鮮服を着て、なぜか調布飛行場の滑走路を歩いていた。   歩きながら、あの詩を繰り返し吟じている。 ――この身が死んで、また死んで。一百回死んだとしても。   白骨が塵となった後、魂があるか無いか分からないが。――  光洙が歩みを進める先に、銀色に輝く飛燕があった。轟音を立ててプロペラが回り、いつでも飛び立てる状態だ。  これが夢だと、金本はすでに気づいていた。現実にはありえない光景だ。日本による支配を忌み嫌い、朝鮮の独立を夢見ていた兄と、日本の軍事力の象徴というべき戦闘機との組み合わせなど――けれども、なぜだろう。  兄が身にまとう着物の白色と、飛燕のジュラルミンの銀色は、妙に合っていた。  滑走路のそばに立つ金本は思わず呼びかけた。 「兄さん!!」  光洙がふりかえる。  目が合った金本はたまらなくなり、今もなおほどけない鬱屈をぶつけた。 「――なんで、自爆なんて選んだんだ? なにがそこまで、兄さんを駆り立てたんだ? 自分が死んで何かを変えられるって、本当に思っていたのかよ!?」  兄は何も答えない。ただ、弟に向かって困ったように微笑するだけだ。  そこで、夢は途切れた。

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