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第11章⑪
ーー人の気配がする。
その気配に身体が反応し、目が覚めたようだ。一瞬、黒木が来たのかと金本は思った。だが病室の入口から入って来たのは、黒木よりずっと小柄な人影だった。
「あ…起こしてしまいましたか。すみません」
整備班長の中山だった。
「…大丈夫だ。少し、うとうとしていただけだ」
金本は言った。寝ていてください、と言う中山を押しとどめ、身体を起こす。起き上がるのに問題はないが、歩くとなるとまだ松葉杖が必要だった。
入院したその晩に、黒木がひそかにやって来て以来、見舞客は一人もいなかった。時節柄、それも無理はない。いつまたB29が現れるか、分からない毎日だ。搭乗員であれ整備兵であれ、おいそれと飛行場を離れられる状況ではない。中山も、金本の機付きの整備班長だからというので、ようやく短時間の外出許可を得て来られたとのことだった。
「見舞いの品を何も用意できなくて、申し訳ないです」
「気を回さなくていい」
「せめて花でも持ってこられたらよかったんですが。十二月の東京は、本当に何もないですね」
その言葉で中山が日本列島よりもずっと南――台湾の生まれであることを、金本は思い出した。中山春雄は通名で、本名は孫日登 。父親は神戸で海産物を扱う会社を経営する華僑で、その父に呼び寄せられ、十五歳で渡日するまで中山は台南で育った――その話を金本はつい先日、本人から聞いたばかりだ。
その時、金本は中山とこんな会話を交わした。
「台湾は暖かいんだろう?」
「いえ。冬はけっこう、気温が下がりますよ。風もありますし、大衣 がないと凍えます」
「意外だな。何度くらいなんだ」
「そうですね。十四、五度くらいでしょうか」
「………」
冬に零下二十度まで下がる金本の故郷とは、えらい違いだ。金本の感覚では、十四、五度もあればシャツ一枚で十分だ。
その中山は日本に来るまで、氷が張った池も、雪景色も見たことがなかったという。
「ーーここ数日、冷え込みが強いが。身体は大丈夫か?」
「はい。さすがに、日本に来て十年経ちますから。もう慣れました」
中山は笑い、それから調布飛行場や「はなどり隊」のことを話し出した。
金本が病院にいる間にも、一、二度空襲警報が鳴って防空壕へ非難する場面があった。ただ、聞いた話ではB29はいずれも単機でやって来て、「あいさつ程度に」爆弾を落として去って行ったという。日本側の反撃で思わぬ損害を被ったため、米軍も警戒して慎重になっているのではないか――病院内では、そのように噂されていた。
中山に確認したところ、やはり先日のような本格的な空戦は発生していなかった。戦果がないかわりに損害もない。米田が撃墜された後、とりあえず誰も死んでいないと聞いて、金本は胸をなでおろした。
「それから、明野で助教をつとめていた笠倉という曹長どのが、新しく『はなどり隊』に入られました」
「それは、いい報せだ」
工藤が特別攻撃隊に入れられ、米田が戦死した。金本も入院中の身だ。早く欠員が埋まればいいと願っていた。笠倉の実力がどれほどかのものかは不明だが、飛行学校の助教がつとまるくらいなら、戦闘技術に関して心配はいらないだろう。
「これで、黒木大尉どもの少しは肩の荷が下りるな」
その言葉を聞いた中山の顔が強ばった。その反応に、金本はいぶかしさを覚えた。
「どうした?」
「………やっぱり。まだ、ご存じではなかったんですね」
「何を?」
聞き返された中山は、ようやく決心したように口を開いた。
そこで金本ははじめて、黒木が特別攻撃隊に入れられた事実を知ったのである。
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