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第11章⑬
工藤は呆然となった。黒木は身をひくと、『と金』の駒で工藤の陣を食い荒らしはじめた。すがすがしいくらいに遠慮がない。ぼんやりしていた工藤は、そこから三手目で虎の子の『角』を奪われた。
防御に穴をあけられた。工藤は急いで黒木の駒の動きを読む。このまま手をこまねいていれば早晩に負ける。
一方、黒木は今しがた取った『角』を手に、にやりと笑った。
「投了か?」
勝ちが見えてきたことを喜んでいる。少年のような、てらいのない笑い方だった。
工藤は今になって、黒木の本質の一部を見た気がした。
短気で、怒りっぽくて、暴力的である半面、頑固なまでに自分の信念を貫き、もっとも危険なところへ躊躇 なく突き進んでいく。いざとなればあっさりと損得を無視して、己の心のおもむくままに行動する――それは、子どもが持つにふさわしい性質だ。
人格を形成するいくつかの部分が成長することなく、いびつな形で純粋さを保っている。
それが黒木という男だった。
工藤は盤面をじっと眺める。
やがて節くれだった指で『香車』をつまむと、それを一直線に進めた。
駒が止まった地点を目にし、黒木は軽く眉をしかめた。『銀将』を進めれば簡単に奪える位置である。しかし、そうすれば陣形が乱れる。どうするか――。
迷ったものの、あと七、八手で詰めると踏んだ黒木は、思い切って『香車』を討ち取った。
その時、工藤が不意に言った。
「――俺は、『金』にはなれません」
「…何だと?」
「大尉どのが取った『香車』と同じです。前に進む以外に能がなく、『金』になる機会も与えられず、盤上から姿を消した。でも、その犠牲によって――うまい具合に突破口がひらけた」
先に黒木から奪っていた別の『香車』を、工藤は盤上の一点に置いた。
ーーしまった…!
一目見て、黒木は勝敗の潮目が変わったことを理解した。急いで防御の手を打つ。
しかし工藤はとっくに、その先を読んでいた。今まで特に意味がないと思っていた駒の配置が、黒木の動きを実に巧妙に妨害した。
そこから数手の内に、両者の形勢は逆転した。
パチ、パチ。パチ、パチ――。
駒の音が無情に響く。今さら逃げるつもりはない――そんな工藤の意志が伝わってくる。
追い込まれながらも、黒木はなお粘った。
「…考え直せ」
悪あがきを続けつつ、説得をこころみる。
「貴様が死んだところで、何も変わりやしない。戦局に何も影響なんて与えやしない。現実の戦争は、しょせん将棋とは別物だ」
「分かっています」
背の高い部下は、淡々と応じた。
「特別攻撃隊に選ばれてから、ひと月近く、ずっと考えてきましたから。俺は捨て駒かもしれない。それでも、木でできた将棋の駒とは違う。人間だ。せめて自分の死が、何がしか意味のあるものだと信じて死にたい」
「そんなもの…」
幻想だと、黒木は言いたかった。だが、言えなかった。
工藤は静かに告げた。
「俺には兄弟がいます。幸い両親 も健在です。幼馴染もいれば、世話になった人もいる。小学校の同級生の中には、すでに結婚して人の親になった者もいます。…郷里の誰もが誰かの子どもで、親で、兄弟で、友人で、誰かにとって大切な人間だ――この帝都に暮らす人間だって同じです。彼らの頭の上にB29が爆弾を落とせば、そういう人たちが一度に何十人も死にます。けれども、もし体当たりで一機でもつぶせればーーそのB29が落とすはずだった爆弾を機体ごと、人のいない山中や海にでも墜とせれば、失われるはずだったたくさんの命を救うことができる」
工藤は駒を手に、かすかに笑う。
「こう考えて、ようやく俺は気分が楽になりました。自分が死んでも、ほかの誰かを助けられるのなら――それは十分に納得できる死に方だ」
そして、駒を置いた。
「王手です」
将棋盤の上で、黒木の王将は逃げ場を失っていた。
黒木は盤面から顔を上げ、工藤を眺めた。
部下の顔に苦悩はない。ふっきれている。
黒木は両手を畳につき、天井をあおいだ。詰んでいた。盤上でも、工藤の説得でも、もはや黒木にできることはなかった。
「……なんだよ。やっぱり強いじゃないか」
「恥ずかしながら。勝負事で、大尉どのに初めて勝てました」
「そうか。記念に何か、くれてやろうか? 開けていない酒瓶が、下宿にまだ残っている」
「いいえ、けっこうです……あ。それならーー」
工藤が言いかけた時、室内に設けられた拡声器がうなりを上げた。
もういい加減、聞き慣れた。B29の襲来を告げる警報が、けたたましく鳴り出した。
黒木たち四人の特攻隊員は、いっせいに動き出した。壁に吊るされた落下傘の縛帯を身につけ、飛行帽とゴーグルをつかむ。黒木の横に並んだ工藤が言った。
「…もし、機会があったら。また一局、お相手してください」
「ああ。いいぞ」
黒木は落下傘の本体をかつぐ。
いちはやく準備を終え、黒木はそのまま廊下に飛び出した。
落下傘を持っているとは思えぬ素早さで、黒木は玄関を目指して駆ける。しかし、そこに至る寸前で急停止した。
まったく思いがけない人物が松葉杖をついて、通せんぼするように玄関に立っていた。
黒木が会うのを最後まで避けていた男。金本だった。
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