204 / 370

第11章⑮

 壁一枚隔てた外では空襲警報のサイレンを圧するように、『飛燕』の液冷エンジンがかん高い轟音を上げている。金本は耳をふさぎたくなった。戦闘の始まりを告げるエンジンの音を、生まれてはじめてうとましく思った。 ――邪魔をしないでくれ。  せきたてられるほど、よけいに離れまいと黒木の身体にまわした腕に力がこもる。 ――この男を連れていかないでくれ……!  金本は切実に願った。しかし、黒木本人がいつまでもとどまることを望まなかった。  金本に気づかれないように、黒木はそっと左足に体重をかけた。それからいきなり、右足で金本の負傷した方の足を思いきり蹴り飛ばした。  足の骨が砕けたんじゃないかーーそう錯覚するほどの痛みが走った。  よろめく金本に対し、黒木の行動は徹底して容赦がなかった。  かがんで落ちていた松葉杖を手に取ると、それで金本のみぞおちをしたたかに突いたのである。金本の手がゆるんだ瞬間、黒木はその抱擁から抜け出した。 「……長生きしろよ。じゃあな」  言い捨てると、黒木はそのまま振り返らずに仮泊所の玄関から走り去っていった。 「待て……!!」  金本は叫んだ。しかし、黒木を引き止めることはかなわなかった。  うめきながら壁に寄りかかり、金本はやっとの思いで立ち上がる。  黒木は最後までぬかりがなかった。出ていくときに、金本の松葉杖も一緒に持ち去っていたのである。  金本はやむなく、傷ついた方の足を床につく。動かした途端に強い痛みに襲われる。それでも、耐えられないほどではない。  片足を引きずって、金本は建物から転がり出た。  外の滑走路では、『飛燕』が次々と離陸する最中だった。  塗装と機体番号で誰が乗っているか容易に判別できる。金本の目の前で今まさに飛び立っていったのは工藤の機体だ。そのあとに『はなどり隊』の今村や東の飛燕が続く。  自分の『飛燕』はどこだ?――金本が首をめぐらせた時、こちらにやって来る中山の姿を認めた。中山は両手で、黒木が略奪していった松葉杖を握りしめていた。  金本は不自由な足を動かし、自分の機付き整備班長のもとへ駆けよった。 「俺の『飛燕』を始動させてくれ。今すぐ…」 「で、できません!!」  中山は上ずった声で、それでもきっぱり答えた。金本の希望を頭から拒んだことは、これまで一度もない。しかし今回ばかりは、そうせざるを得なかった。  つい先ほど、外で待機していた中山は仮泊所から出てきた黒木とはち合わせした。  金本の機付き整備班長を見つけた途端、黒木は目をすがめた。 「貴様か! 金本をここに連れて来たのは」  黒木につめ寄られ、中山は震えあがった。殴られる。そう思った直後、黒木に松葉杖を乱暴に押しつけられた。 「あのバカを絶対に飛ばすな!」  黒木は鋭い口調で言った。 「負傷した足じゃ、方向舵(フットレバー)をまともに動かせん。かりに動かせたとしても普段通りの操縦は無理だ。B29の餌食にさせたくなけりゃ、あいつを絶対に上げるな!」 「は、はい!」  ーー金本が中山の肩を両手でつかむ。あまりの握力に、中山は痛みを覚える。  だがそれ以上に、金本の目に宿る悲痛な光が中山の心をえぐった。 「中山! 頼む。頼むから…」 「だめです。許可できません」  どれほど懇願されても、中山は首をたてに振らない。しまいに、怒りにかられた金本は中山を突き飛ばした。たまらず中山は尻もちをつく。それでも、足を引きずって『飛燕』を探しに行こうとする金本を、後ろからつかんで必死で引き止めた。 「あきらめてください! その身体で離陸させるわけにいきません!」  金本はしがみつく中山を、力まかせに引き離した。  もう、滑走路の周りに機体はほとんど残っていない。  その時、最後とおぼしき『飛燕』が誘導路から入ってきた。  目に入った瞬間、金本には黒木の機体だと分かった。 「待ってくれ……」  口からこぼれた声は震えていた。  こんなのはあんまりだ。  何もできず、ただ地上から見送ることしかできないなんて、ひどすぎる。 ーーせめて連れていってくれ…!  だが金本がいくらわめいたところで、無慈悲な現実を変えるのに、いかなる力も持ちえなかった。 「――行くな!!」  叫び声はエンジンの轟音にかき消された。  金本を振り切るように、加速したジュラルミンの燕は滑走路を走りぬけ、虚空へと飛び立っていった。

ともだちにシェアしよう!