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第12章① 一九四七年八月

「ねえ、あなたはご存じかしら。人間の身体は、六十パーセントが水でできているそうよ」  鈴を転がすような声が、もっとも奥にある独房から聞こえてきた。 「わたくしなら身体に含まれている水分は三十三リットル。あなたなら…そう、大体五十リットルくらいかしら。その内の二十パーセントが失われると、死に至ると言われているわ」  巡回のためにやって来た兵士は、女が面白そうに語る話をすべて無視した。  このエリアの担当になる時、監獄を統括する所長から直々に言いわたされていた。 「この監獄の中で、もっとも注意が必要で油断ならないのが、女囚房のあの女だ」  むやみに近づいてはいけない。口をきくな。やむを得ず扉を開ける必要がある時は、必ず三人以上で行い、最大限の警戒をしろ――。  女には当然、名前があった。だが所長は、彼女が危険極まりない人物であることを監獄内の全職員に周知させるため、あえてこう名づけた。  「ガラガラヘビ(ラットルスネイク)」ーーアメリカ人なら誰もが知っている毒ヘビである。  ヘビ呼ばわりされる女囚だ。きっと魔女のような女だろうと、兵士は会う前に想像していた。  ところが予想に反し、女囚房の奥に厳重に閉じ込められていたのは、すらりとした肢体とゆたかな黒髪を持つ若い女だった。囚人服を着ているにもかかわらず、清楚で愛くるしいと言っていい容姿に、兵士は子どもの頃に映画館で見たアニメの白雪姫を思い出した。  休憩時間になると、先にこの任務についていた仲間をつかまえて、兵士は言った。 「なんだ、えらく可愛らしい(ガール)じゃないか。あの女の子のどこが危険なんだ? 七面鳥の首だって絞められそうにもないぞ」  聞いていた相手は鼻を鳴らした。 「知らんのか? なら教えてやる。あの女は戦時中に、日本軍のスパイとして働いていたんだ。その時に、連合軍の人間を少なくとも二人、殺している」 「…冗談だろう?」 「いいや、本当さ。うわさじゃ背後から忍び寄って、首を一瞬でかき切ったって話だぜ。お前もせいぜい気をつけろよ。あの無邪気な顔にだまされて、うっかり背中を向けた日には……」  仲間は人差し指と中指で首を切る仕草をし、両目をぐるりと回してみせた。  …以来、兵士は所長に言いつけられたことをすべて守ってきた。  女はことあるごとに、流暢な英語で話しかけてきたが、兵士はそれを風の音か何かのように聞き流した。たとえ、今のように女の語ることに興味をそそられたとしても。  「ガラガラヘビ」は、無視されてもいっこうに怒らない。まるで気の利いた冗談でも言われたように、クスクスと笑う。  その笑い声は、監獄のむき出しの壁にはね返って、実際に発せられた以上の大きさとなって響いた。 「あなたや他の方は、どうしてかわたくしのことをひどく恐れていらっしゃるけれどーー殺そうと思えば、すごく簡単にできますよ」  女の声が半オクターブ低くなる。たったそれだけで印象ががらりと変わり、ひどく冷酷なものに聞こえた。 「このまま閉じ込めて、何もせずに放っておけばいい。この暑さですもの。三日もしない内に干上がって死ぬに決まっている」  兵士は口の中がカラカラに乾くのを感じた。やっぱり、この女はまともじゃない。  兵士は彼女の独房の前に来ると、扉から必要以上に離れた所に立った。女の手が伸びても絶対に届かない位置から、扉につけられた鉄格子をのぞく。  「ガラガラヘビ」は房の壁近くで、両足をくずして座っていた。笑いながら、兵士に向かって空のブリキのコップをこれみよがしにかかげて見せる。  こちらの恐怖心を見透かしたような仕草に、兵士は気分を害した。  何も異常がないと判断すると、わざとゆっくり背を向けた。 ーーうっかり背中を見せた日にはーー  仲間の言葉がよみがえり、背筋がぞくりと泡立つ。バカバカしい、と自分に言い聞かせながら、悠然さをよそおった足取りでその場をあとにした。

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