213 / 370
第12章②
「…あれはヒツジね」
監視役の兵士が出て行ったあと、「ガラガラヘビ」は独りつぶやいた。
ヒツジは従順である一方、臆病で警戒心が強い生き物である。兵士の挙措に「ガラガラヘビ」は同じ性質を見出した。彼は上官に言いつけられたことを墨守しているのだろう。そうしていれば、何も問題は起きないと思っている。
すでに「ガラガラヘビ」の術中に、はまりこんでいるとも知らずに。
兵士は警戒して、扉に不必要に近づかないようにしている。それができるのも、離れた位置から房内にいる「ガラガラヘビ」の姿を、ちゃんと確認できるからだ。
監視対象が、わざと見えやすい場所に座っているとは、思ってもみない。
さらにその行為によって、実は房内のあちこちに死角が生じていることも。
「ガラガラヘビ」は改めて、自分を閉じ込めている檻を内側から眺めわたす。
そこは広さが三畳しかない独居房だった。床面積の三分の一は、用を足すための便器と、本が何冊か置かれた備え付けの棚で占められている。残り二畳には畳が敷かれ、その上に寝具がたたまれて置かれていた。
房内と廊下を隔てる重い鉄製の扉には、鉄格子付きの小窓のほかに、食事を受け渡しするための小さな受け取り口が特別に設けられている。コップ以外の食器は、食事が終わるたびにここから引き上げさせられる。他の囚人は食事時に廊下に出て配膳の列に並ぶが、「ガラガラヘビ」にそれは許されていなかった。
また、監獄内の食事は、箸ではなくスプーンを使うことになっていた。食器もアルミ製だ。もともとは囚人が、箸や陶食器の欠片を急所に刺して自殺するのを防ぐためだが、「ガラガラヘビ」に限って言えば、看守を殺せる武器を与えないという、特殊な目的があった。
さらに壁の一角には、これまた鉄格子のはまった小窓が「ガラガラヘビ」の頭よりずっと高い場所にあった。時折、敷地内を巡邏する兵士が、「異常の有無」を確かめるためにここから房内をのぞきこむことがある。そのたびに「ガラガラヘビ」は物見高いのぞき魔に向かって、媚びを含んだ笑顔をふりまいてやる。しかし上から厳しく言いわたされているからか、はたまた自分につけられた失敬なあだ名(「ガラガラヘビ」と呼ばれていることを彼女は知っていた)のせいか、気を許すに至る人間はひとりもいなかった。
壁の小窓を見上げ、「ガラガラヘビ」は耳をすました。内にも外にも兵士の気配はない。
それを確かめた上で、彼女は音もなく跳躍した。
窓の鉄格子をやすやすとつかむと、腕の力だけで身体を引き上げ、外をのぞく。
鉄格子の向こうにあるのは、猫の額ほどの中庭だ。その先には、囚人の逃亡をふせぐために分厚いコンクリートの塀が張り巡らされている。
壁の向こう側がこの監獄に勤める将校・兵士の官舎であること、さらにそこに外へ通じるゲートが設けられていることを、「ガラガラヘビ」はすでにつかんでいた。
巡回の兵士に見つからない内に、彼女は手を放して床に降り立った。
それから日課にしている運動をはじめた。腕立て、腹筋、跳躍、等々――。
半刻後、「ガラガラヘビ」は汗ばんだ額を振り、満足気な息をついた。死角になっている扉の裏側に、隠し持っている木炭のかけらを使って彼女は指でしるしをつけた。日付を忘れないための手製のカレンダーである。
「今日は土曜日ね…」
早いものでもう八月になった。「ガラガラヘビ」が様々な経緯を経て、この監獄へ収容されてから二ヶ月が経過しようとしていた。収容が一時的な処置か、あるいは彼女をここへ閉じ込めた人間たちが永久にその状態を維持しようとしているのか、「ガラガラヘビ」は知らない。
別に、どちらであってもかまわない。
いずれ時が来れば、自発的に出ていくからだ。
毎日の鍛錬はその目的のためだ。計画は入念に、準備は万全に。そして、いざ実行する時は大胆に、彼女はふるまうつもりだった。
「ガラガラヘビ」はこの房内で唯一、文明人らしさを感じさせる棚の前に立つ。
そこには聖書や仏書が並んでいる。監獄内で囚人を教え諭す役目を負った宗教者――教誨師 に請うて、手に入れたものだ。もっとも「ガラガラヘビ」は別段、宗教心に目覚めたわけではない。読んでいるのはただの暇つぶしだ。
それを示すように、聖なる書物をぞんざいな手つきで押しやると、彼女は奥から小さな布袋を取り出した。持ち込むことを許された数少ない私物だ。
「ガラガラヘビ」は布袋を見つめ、それを指先で軽くなでた。
「…わたくしのことなど、あなたはもう思い出しもしないでしょうね」
女の横顔に物憂げな笑みが浮かぶ。
布袋の中身は、ある男の髪だ。遺髪ではない。一度、「ガラガラヘビ」はあやまって彼を殺しかけたが、幸いにして男は生きのび、そしてまだ生きていた。
フフッと、笑みの質が変わる。
この狭苦しい檻を抜け出した暁には、彼に会いに行くつもりだ。彼女の姿を目にした時、男がどんな反応をするか――それを考えるだけで、妙に心が躍った。
「――あなたは今、何をなさっているのかしらね。加藤さん」
「ガラガラヘビ」――かつて日本軍のスパイとして「ヨロギ」という暗号名を与えられ、つい数ヶ月前に、U機関の長、ダニエル・クリアウォーター少佐を殺害せんと暗躍した「西村邦子」は、いかにも楽し気に忍び笑いをもらした。
ともだちにシェアしよう!