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第12章⑤
甲本は食糧庫の入口付近でほうきを手に、黙々と地面の野菜くずを片付ける。
そのそばで、ひとりの囚人が先ほどからしきりに甲本に話しかけていた。
「――あなたは、人が嫌がることを進んでなさる。大変よい心がけだと思います」
囚人の年齢は甲本とそれほど変わらない。名前を手塚という。手塚はすでに裁判を終えており、二十年の刑期が課せられたことを、甲本は本人から聞かされていた。
「聖書にも書かれています。『狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない(※新共同訳『新約聖書』マタイによる福音書第七章十三―十四節)』と――この聖句を知っていても、実践できる人は少ないと聞いています。あなたはまさに、その少ない人間で……――」
手塚の言うことを甲本は途中から聞き流していた。もとより宗教に興味はないし、手塚のような手合いを、情報将校だった甲本は少なからず見てきた。
今まで無縁だったものに触れたことで、その熱心な信者となる。
新興宗教にはまる老人や、共産主義思想にかぶれる若者などはその典型だ。格別にめずらしいことではない。
事実、塀の外にいる日本人の多くが、アメリカの喧伝する自由と民主主義を熱烈に歓迎していることを、甲本は新聞を通じて知っていた。
手塚について言えば、それはキリスト教――新教 の教えだ。
巣鴨プリズンに収監された手塚は、死刑になるのではないかという不安から一時、ノイローゼのような状態になった。そんな時、プリズンで働くある教誨師 のすすめで礼拝に参加し、それがきっかけとなって改宗するに至った。聖書の教えによって、手塚は不安に打ち勝つことができたという。まあ、それ自体は別にけっこうな話だ。
わずらわしいのは、この囚人が自分を救ってくれたありがたい教えを、他人にやたらと勧めてくることだ。そして手塚は、同じ監房にいる甲本を標的にすることが多かった。
「どうですか。明日の日曜礼拝にあなたも参加されては。きっと心が洗われる体験になると思いますよ」
「…あいにくですが」
甲本はやんわり言った。
「私の祖父は浄土真宗の坊主だったもので。孫が宗旨がえしたと知ったら、化けて出てきかねない。遠慮しておきます」
その時、ちょうど二人がいる食糧庫の方へひとりの男が近づいてきた。
アメリカ兵ではない。日本人で、米軍から払い下げられたらしい帆布のリュックを背負っている。男の姿を認めた手塚が、しゃちこばって頭を下げた。
「おはようございます。牧師さま」
昔のくせのまま、手塚は敬礼までしてのけた。まるで軍の上官に対する態度そのものだ。
一方、甲本はぶしつけな視線を牧師にそそいだ。このひげ面の男こそ、手塚に礼拝への参加をすすめ、救済への道を開いた張本人だった。
「おはようございます…手塚さん」
あいさつのあと、牧師が名前を呼ぶまでわずかに間があった。甲本は、牧師が敬虔な信徒の名前をどうも忘れていたのではないかと疑った。
牧師は、気を取り直すように微笑した。
「掃除ですか」
「はい。今日は土曜日ですが、牧師さまはどうしてプリズンにいらっしゃったので?」
「ジョンソン牧師に、また通訳を頼まれましてね」
アメリカ軍の中尉であり、プリズンの教誨師でもある人物の名を男は挙げた。
「それと、来たついでに、また少し食べ物を届けようと思いまして」
「いつもありがとうございます」
手塚は感激をあらわにする。
「囚人はみな、あなたに感謝していますよ」
「そうですか。それはよかった――では急ぎますので」
牧師はそう言って食糧庫の中へ入って行った。しばらくして、炊事担当の兵士と英語で話す声が甲本の耳に届いた。牧師の話す内容は、甲本のつたない語学力でもかろうじて理解できた。
「……――はい。これはキノコです。身体にいいものですが、それほど量もありませんから。お年寄りの方々へ食べさせてあげてください」
牧師が食糧庫から立ち去ったあと、手塚がふたたび甲本に話しかけてきた。
「まだお若いですが、カナモト牧師は本当に素晴らしい方ですよ。礼拝の時に時々、短い話をされますが、我々、凡愚の人間にも分かるように聖書の真髄を伝えてくれます。どうです、あなたも一度、参加されては――」
「いや、けっこうだ」
甲本は再三の勧誘を、今度はきつめの態度ではねつけた。
それから、まだ掃除の住んでいない窓を拭くべく、バケツを持って水道に向かった。
蛇口から勢いよく水を出しながら、甲本は吐き捨てた。
「…くだらん。神の救済など、まやかしだ」
甲本が死なせた人間たちを、神は救いはしなかった。
アメリカ人の捕虜は、衰弱と薬の不足によって死んだ。シンガポールの華僑たちは反日的行動を取ると決めつけられ、虐殺された。日本軍と戦うゲリラをかくまったフィリピンの農民たちは、見せしめのために殺され、その村は焼き払われた。
そして甲本本人も、まもなく絞首台へのぼる。
上から命令されたことを行ったまで――裁判において、甲本についた弁護士は被告人の無罪を主張するために、そのような典型的な弁論を張っている。
しかし、実際に手を下した点で弁解の余地はなかった。まったく。
甲本も人間だ。死を忌避する心情はある。だが、死の恐怖から逃れるために、何かにすがりつくのはもっと嫌だった。頑迷と後ろ指を指されようが、固陋と嘲笑われようが、その点を譲る気はない。
あの赤毛のアメリカ人将校に受けたように、いくら鋭く糾弾されようとも、甲本は自分が信じてきたものに殉じるつもりだ。
アジア諸国を武力で屈服させ、支配下に置き、広がっていった大日本帝国は、アメリカに敗北し、事実上滅んだ。甲本はその尖兵のひとりとして、戦争に加わった。亡国によって、殺されることはすこぶる理にかなっている。
少なくとも、今までろくにあがめもしなかった神にすがり、心の平安や救いを得るなど論外だった。
気づくとバケツには、あふれんばかりに水が溜まっていた。甲本は蛇口を閉める。
すでに思考は別のものへ向けられている。先刻、すれ違った牧師のことだ。
低い声で、甲本はその名前をつぶやいた。
「……カナモトイサミ」
バケツを手にした甲本は、牧師の姿を目で追った。
しかし、探そうとした対象はすでに、どこかへ消えたあとだった。
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