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第12章⑥

 ガラガラヘビは昼までの残り時間を読書に費やした。手に取ったのは、世界中でもっとも長く読みつがれてきたであろう書物――聖書(バイブル)である。少し前に、興味本位で面会した日本人の牧師からもらったものだ。  ページをめくる間に、ガラガラヘビは昔のことを思い出した。 「――聖書の中には、スパイの話がちょくちょく現れる」  ガラガラヘビが、「西村(にしむら)邦子(くにこ)」を名乗っていた頃のことだ。  彼女を住み込みのお手伝いとして雇ったダニエル・クリアウォーター少佐は、ある日曜日の午後、自邸の小図書室で雑談がてら語りだした。 「たとえば旧約聖書の士師記に、デリラという美女が出てくる。彼女はサムソンという怪力無双の男の恋人だったんだが、サムソンの敵であるペリシテ人たちに買収されて、恋人の怪力の秘密を探り出そうとたくらむ。そして、サムソンの力の源が髪の毛だと知ると、彼が眠っている間に髪をすべて剃ってしまったんだ。その結果、サムソンは力を失い、ペリシテ人たちに捕らえられてしまった」 「……ずいぶん、こわい女の人ですね」  邦子はそう言って、雇い主の顔をさりげなく見返した。  彼女の正体を知ってあてこすっているのか?――そんな疑念がよぎったが、クリアウォーターはただ自分が興味のあることを話しているだけのようだった。  邦子は計算された角度で、愛らしく小首をかしげた。 「たとえ恋人でも、すべてを打ち明けるのはやめた方がいい、というのが、このお話の教訓ですかね」 「そうだね」 「だんなさまも、魅力的な女性には気をつけてくださいね。…あ、だんなさまの場合は魅力的な男性か」 「…言うね。邦子くん」  クリアウォーターが苦笑いする。それを見て、邦子もクスクスと笑った。  ガラガラヘビにとって、クリアウォーターのもとにいた日々はけっこう楽しいものだった。   赤毛の青年は雇用主として理想的だったし、教養もあって、一緒に過ごすことは苦にならなかった。  ただしそのことと、情がうつって殺せないということは、全く別の話だ。  クリアウォーターをいよいよ始末しなければいけない状況に陥った時、ガラガラヘビに躊躇いはなかった。  むしろ、殺せなかったことを今でも残念に思っている。拳銃ではなく、使い慣れたナイフを最初から使っておけば、結果は違ったのではと、そんなことが頭をよぎることもある。  もっとも、仮にこの監獄から出たとしても、もう殺す理由もないのだが――。 「スパイと言えば…」  ガラガラヘビは手にしていた聖書をひっくり返す。  これを持って来たのは、巣鴨プリズンに教誨師として勤める日本人の牧師だった。  ひげを生やしていたが、年齢は多分ガラガラヘビとそう変わらない。男はわざわざガラガラヘビの独房がある建物におもむいて、神の赦しについて彼女に話して聞かせた。  話の内容は当たり障りないもので、とりたてて感銘も受けなかった。  ただ、それを語る人間からは、そこはかとないうさんくささを感じた。  ガラガラヘビ自身が、名前や身分を偽る玄人(くろうと)だったからだろう。彼女は直感的に見抜いた。 ――この男は、本物の牧師ではない。牧師のふりをしているが、正体は別物だ。  そう思って観察すると、いくつもの(あら)がたちまち目についた。挙措に緊張の現れがあるだけでなく、話し方や動作、目つきに特有の鋭さが残っている。  ガラガラヘビはわずかな間で、男の正体を見破った。   ーー間違いない。この男は、元軍人だ。  しかし、そんな人間がどうして教誨師として、巣鴨プリズンに出入りしているのか――その理由まではつかめなかった。 ――ここが戦犯を閉じ込めている監獄だということを考えれば。いちばん、ありえそうなのは脱獄の手引きか。  もし、そうだとしたら興味深い。ガラガラヘビ以外にも、自主的に監獄から出ようという性根のすわった(?)人間がいるなら、ぜひ会って話してみたかった。  とりわけ、どうやって鉄の門とコンクリートの塀を突破する気であるか、を。

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