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第12章⑨
…血文字を書き終えたカナモトは、満足気に祭壇のある建物から立ち去った。
これが巣鴨プリズンで行う、最後の仕事だった。あとはただ、待っていればいい。
今まで、カナモトはほぼ順調に事を運んできた。すべては計画通りに進んでいる。
――そろそろ、食事が終わった頃合いだ。
プリズン内ではあらゆることが、あらかじめ定められた時間表に従って動く。食事の時間も例外ではない。カナモトが用意してきた食材はすでに、罪人たちの胃袋に収まった。
あとは自動的に、白く可憐な『天使』が彼らの腹を食い破って、裁きをくだしてくれる。
小脇を殺し、河内を殺した。
そして、ここ巣鴨プリズンでは――数日後には、死人が現れはじめる。大きな騒ぎとなり、新聞沙汰になるのはまず間違いない。カナモトのもくろみ通りに。
その時、カナモトはすでに遠く離れた場所にいるはずだった……――。
――騒がしいな。
中庭を通って、監房の近くまで戻ってきた時である。カナモトは初めて異常に気づいた。
人が廊下や階下を、あわただしく行き来する気配がする。普段はないことだ。
カナモトは監房棟に設けられた外廊下から、中をのぞきこんだ。
そして、そこで展開されていた光景に目を疑った。
配膳当番らしい囚人が大声で叫びながら、せわしない足取りで囚人たちがいる房から房へ歩きまわっていた。
「――いいか。とにかく、スプーンを置け! 食事に手をつけるな。特に白いキノコがあったら、絶対に食べちゃいかん! 万一、食べてしまっていたら、すみやかに吐き出せ!!」
囚人たちの大半は元軍人だ。的確な命令をくだすのは、お手のものだった。
カナモトは、囚人房の外にいた別の囚人をつかまえて尋ねた。
「一体、何ごとです?」
「ああ、牧師さん!」
興奮気味のその囚人は、カナモトに向かってまくしたてた。
「それが、さっき警報が鳴りましてね。第三棟の配膳の連中が、何ごとかって見に行ったもので。そしたらアメリカ人の将校に言われたんですよ、それも日本語で。『味噌汁に毒キノコが入っている。絶対に食べるな。もう食べてしまっていたら、すぐに吐き出せ!』って」
カナモトが表情が凍りつく。
囚人は牧師の異変に気づいた様子もなく、さらにたたみかけるように舌をふるった。
「最初は訳が分からなくてね! いうのも、我々に出された味噌汁には、キノコなんて見当たらなかったんですから。そもそも、具なんてほとんど入ってないチンケな代物です。ところが、騒ぎを聞きつけた第一棟と第二棟の連中が言うには、確かにキノコがあるって言うもんで。多分、あっちはお偉いさんが多いから、特別に配当があったんでしょう。そしたら、キノコを見たあっちの囚人のひとりが、確かに毒キノコみたいだって言い出したんで、そこからは、全部の棟で『食べるな、吐き出せ』の大騒ぎですよ」
カナモトは呆然となった。
――こんなに早く、見抜かれただと?
想定外のことだった。
だが、驚き自失ばかりしていられない。ただちに、行動にうつらねばならない。
気づかれた以上、なすべきことはただひとつ。
急いで、この場から離れることだ。
カナモトは身をひるがえし、グリーン地区へ通じる扉を目指した。巣鴨プリズンの外に通じるゲートには、グリーン地区を通らねば行けない構造になっていた。
外廊下を回り込み、カナモトは監房エリアの内部に通じる扉をくぐる。
ちょうどその時、レッド地区とグリーン地区をつなぐ扉から、兵士の一団がやって来るのが見えた。何人かがカナモトに気づいたが、さすがに挨拶する余裕はないようだ。
近づく内に、彼らが口々に話す声が聞こえてきた。
「警報を鳴らしたのは、囚人を尋問するために来た参謀第二部 の将校らしいぞ」
「午前中に本庁舎でしつこくねばっていた、あの赤毛の少佐どのか?」
「そうだ。おまけにその赤毛どのが、囚人の食事に毒キノコが入っていると言い出したものだから、囚人連中がパニックを起こしている。おかげで、こっちは昼休み返上で働くはめになって、いい迷惑だ」
「で、その迷惑少佐どのを所長室に連行するのが俺たちの仕事だとして。ご本人は今、どこにいる?」
「囚人用厨房 だ。どうして毒キノコが混入したかを聞きに行ったそうだ。というわけで、我々もそちらに……――」
兵士たちの会話が途中で途切れる。
彼らの肩越しに、カナモトはその男の姿を目にした。
身長は百八十センチをこえている。全体的に体格がよく、年は三十前後といったところだろう。エメラルドのような緑の目も珍しいが、とりわけ印象的なのは髪の色だ。
男の髪はまるでオニユリの花びらに似た、濃い朱色をしていた。
その朱髪の男が、兵士たちにこう言うのが、カナモトの耳にも届いた。
「今日、プリズンに来た日本人の牧師はどこだ?」
その声には、聞く者の反論をまとめて封じ込める凄みがあった。
「急いで所在を確認してくれ。まだ、プリズン内にいるなら捕まえるんだ。大量の毒キノコを持ち込んだのは、その牧師だ」
兵士たちの何人かがぎょっとして、背後を振り返る。
しかし、今しがたまでいたはずのカナモト牧師の姿は、すでに影も形もなかった。
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