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第12章⑩
かつて、参謀第二部のセルゲイ・ソコワスキー少佐に「悪魔並みに奸智に長けた男」と評されたクリアウォーターだが、生身の人間である以上、時にミスや失敗もする。とはいえーー。
―ーこれは最低の部類だな。
時計の針をもどして過去に行けるなら、真っ先に自分の口を両手でふさぐだろう。毒キノコを持ち込んだ張本人をつかまえる絶好のチャンスが目の前に転がっていたのに、余計なひと言でふいにしてしまったのだ。
クリアウォーターとカトウはまだ監房エリアにいた。そばではMPがひとり増えて、二人がかりで部外者の少佐とその部下を見張っている。クリアウォーターたちから少し離れたところでは、巣鴨プリズンの所長を務めるアメリカ陸軍第八軍所属の大佐が、顔を赤くしてカナモト牧師を探すよう、部下たちに怒鳴っていた。
姿をくらませた牧師の捜索に、クリアウォーターも協力はしたかった。しかし、怒り狂った所長からつい先ほど、「これ以上、勝手な真似をするな。もう何もするな。なんなら呼吸もするな!」と脅し交じりに釘をさされたばかりである。今は動かない方が賢明だった。
とはいえ、身体の内側からわいてくるいらだちを完全には抑えきれるものでもない。それは猟犬の本能に近い。逃げる獲物を前にして、手をこまねくしかないのは何ともつらかった。
その時、焦燥にかられていたクリアウォーターの手首に、何者かが触れた。
見おろすと、美しい切れ長の瞳と目が合った。
「――どうか、焦らないでください」
かんで含めるようにカトウが言った。周囲をはばかって、すぐに触れていた手をひっこめる。
「ゲートの詰所にいる兵士から、牧師が外に出ていないことは確認できたんですよね。なら、確実にまだ中にいる。すぐに見つかりますよ」
カトウと見つめ合う内に、クリアウォーターも頭が冷えた。カトウにキスしたくなる。しかし、場所が場所なのでさすがに控える。
そのかわり、肩をすくめて微笑を浮かべた。
「君の言う通りだ」
それを聞いて、カトウが少し表情をゆるめる。クリアウォーターの気をまぎらわそうと思ったのだろう。カトウは自分の方から口を開いた。
「毒キノコは牧師が持ちこんだ、と聞きましたが。知らずに持って来たということは…」
「無知による事故、ということかい?」
「はい」
「まず、ありえないね」
クリアウォーターは断言した。
「あれは『破壊の天使 』――日本語ではそう、ドクツルタケという名前だったはずだ。山に入ればよく見かける珍しくもないキノコだが、たった一本で大の男を死に至らせることもある。猛毒のキノコだよ。厨房にいた炊事兵の話では、牧師が持ち込んだキノコは少なくとも百本以上はあった。そのすべて同じものだったというからには――わざわざ山に入って、かき集めたに違いない」
しかも、とクリアウォーターは厳しい表情になる。
「牧師は今までにも何度か、自分で採ってきた山菜やタケノコを持ち込んで、炊事兵に渡していた。きっと差し入れたものが、本当に調理されて囚人に出されるか、試していたんだ。さらに何度も同じことをすれば、その行為に警戒心を持たれにくくなる効果も期待できる」
「……計画的ですね」
「ああ。しかも、選んだのが『破壊の天使』ときている。このキノコは毒性が極めて強いだけじゃなく、中毒症状が二段階にわたって現れるという特徴があるんだ。最初は食べてから数時間、長くても二十四時間以内に下痢や嘔吐の症状が現れる。やっかいなのは、それがたいてい一日くらいで治ってしまう点だ。そのため、最初は単なる食中毒だと診断されがちだ。ところが治ったと思っている間に、身体の中では内蔵が徐々に毒に蝕まれて、破壊されていく。数日後に、吐血や黄疸といった症状が現れた時は、たいていもう手遅れだ」
「つまり、毒を盛られても、それが発覚するまでに時間がかかるということですか」
「その通り。そして、よほど注意していない限り、調理されたキノコが毒キノコだと気づかれることは、まずないだろうな。巧妙なやり口だよ」
「……味噌汁に毒キノコが入っていると見抜いた囚人に感謝しないといけませんね。さもなければ、死人が出てもっと大変なことになっていた」
「そうだね」
クリアウォーターはうなずいた。カトウに伝えていないことがあった。
白いキノコがドクツルタケだと看破した囚人は、二人にとって旧知の人間だ。『ヨロギ』――かつて西村邦子と名乗っていた日本軍の元スパイは、この巣鴨プリズンに収監され、『ガラガラヘビ』と呼ばれている。そのことをクリアウォーターは知っていたが、カトウは知らない。知る必要もないし、今後も教えるつもりはない。
邦子とカトウは二度と接点を持つべきではないと、クリアウォーターは本気で考えていた。
赤毛の少佐は、あえて冗談めかした口調でカトウの気をそらした。
「ついでに、面会の日時を間違って記入した人物にも、礼を言うべきかもね。もし予定通りの時間で尋問を行っていたら、私がここでプリズンの所長をきりきり舞いさせる騒ぎを起こすこともなかったろうから」
クリアウォーターはそう言って、この場で指揮を行う大佐の方を見やった。
所長は事が大きくなること、なにより囚人たちがこの騒動に触発されて、暴動を起こすことを恐れているようだ。見たところ、牧師の捜索に充てられている兵士の数より、監房エリアの囚人たちを威圧して見張る人数の方が明らかに多い。もし、クリアウォーターが彼の立場なら、少なくとも捜索班と監視班の数を逆転させただろう。
とはいえ――カトウの言う通り、牧師が見つかるのは時間の問題だと、クリアウォーターも思っていた。
牧師はまだ巣鴨プリズンの中にいる。構内は入り組んでいて、普段は使われない地下道などが存在しており、隠れ場所には事欠かない。だが、どこに逃げこもうとと無駄だ。
最後には発見されて、引きずり出される。
「見つけ出されたら、ぜひ訊いてみたいものだ」
クリアウォーターはつぶやく。
柔らかい口調だが、声の奥底に目に見えぬ牙がひそんでいるのを、カトウは感じ取った。
「どういう理由で、戦犯たちの大量殺人を計画したのかをね」
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