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第12章⑪
巣鴨プリズンの敷地は広い。クリアウォーターが鳴らした警報の音が聞こえず、さらに騒ぎにまだ気づいていない人間が、わずかだが残っていた。
甲本貴助 とその同房の囚人、手塚である。二人は倉庫の清掃を終えた後、監房の裏手にある散歩道を通って、運動場の方へ行っていた。
巣鴨プリズンでは緊急事態が生じた場合、兵士たちが真っ先に囚人の所在を確認して、彼らを独房なり雑居房なりに戻す手はずになっていた。当然、甲本と手塚も対象者である。
ところが、兵士たちの間でやり取りが行われた時、ひとつの行き違いが生じた。
プリズンの囚人たちは様々な労働を課せられている。それを割り振るのは、エンジニア・オフィサーと呼ばれる部門なのだが、そこに所属する兵士が今日の囚人たちの当番表を確認した時、甲本と手塚についてこう言った。
「彼らは外 に掃除に行っている」
着任して日の浅いその兵士は、監房の外に行っていると言ったつもりだった。
だが、これを聞いた監房エリアの兵士は、巣鴨プリズンの外に行っていると受け取ってしまった。実際に当日、囚人の集団が整地作業で市街に出ていたので、余計に確認を怠ってしまったのだ。
その結果、甲本と手塚は呼び戻されず、また監房で生じた騒動も知らずに、掃除道具をかついで今日、最後に清掃することになっていた観音堂をめざして歩いていた。
観音堂は、運動場の一角に設けられた刑場――絞首刑を執行する場所だ――の近くにある。
こじんまりした平屋の建物で、内部には拝礼用の祭壇が設けられた。戦前、巣鴨プリズンがまだ東京拘置所と呼ばれていた時代、祭壇には観音菩薩の掛け軸がかけられていた。死刑囚が刑場に向かう前に、最後にここで観音の御姿を拝して刑にのぞんでいたという。しかし、東京拘置所がアメリカ軍に接収され、巣鴨プリズンと名前を変え、戦犯収容に特化した施設となった後は、ずっと使用されないまま、放置されていた。
その観音堂はつい最近になって、週に一度、必ず清掃が行われるようになった。理由は説明されていない。しかし、多くの囚人はあらかた見当がついていた。
――おそらく前のように、死刑を執り行う死刑囚に、最後の時間を観音堂で過ごさせるつもりなんだろう。
事の真相は不明だ。ただ、かつて掛け軸がかけられていた祭壇の中はいまだ空のままだ。前に使われていたらしい焼香用の香炉が置かれているが、それがかえって寂寞を感じさせる。
実際にここが本格的に使われる時は、本庁舎にある礼拝堂のように、死刑囚の信仰に応じて、十字架が置かれたり、仏像が祀られたりするのではと噂されていた。
観音堂の戸を開けて中に入った瞬間、甲本は思わず鼻をつまみたくなるほどの異臭を覚えた。手塚も同様だったらしい。それまで甲本の背後で、キリストの教えについてとりとめなく話していたが、臭いをかぎとるや、さすがに異変を感じて口の動きを一時停止させた。
「なんでしょうね、このくさいのは…」
「……とりあえず換気しましょう」
甲本は手塚をうながして、窓を開けさせた。
空気を入れかえると、こもっていた熱気が逃げていき、いくぶん臭いはましになった。それでも完全には消えない。
さらに、どこからか、うわん、うわんと、ハエの羽音まで聞こえてきた。
手塚は薄気味悪そうに堂内を見わたす。それと対照的に、甲本の表情には不安のかけらもない。不快げに眉根を寄せ、元情報将校だった男はハエの飛び交う音に耳をすました。
「…どうも、一番奥に安置されている祭壇から聞こえてきますね」
甲本はつかつかと祭壇に歩み寄ると、観音開きの扉に手をかけ、一気に開いた。
その途端、強烈な死臭がまともに顔にふきつけてきた。
甲本はとっさに腕で口と鼻を覆った。
祭壇の中で、一匹の獣が血をまき散らして死んでいた。
最初は犬か猫かと思った。だが、よく見るとそれは小さな豚だった。のどをかき切られている。そして、その傷口に、死肉の臭いをかぎつけたハエが何匹もたかっていた。
おまけに祭壇の内側にあったのは、豚の死骸だけではなかった。殺された哀れな獣の血で書かれたのだろう。漆喰で覆われた白壁に、異様な文言が血の赤文字で刻まれていた。
――此身死了死了 一百番更死了 白骨為塵土 魂魄有也無――
「うわっ! ひどい…」
甲本のうしろからのぞきこんだ手塚が、小さく叫んだ。
「一体、誰の仕業でしょうか。これは、悪ふざけで済む域をこえていますよ」
甲本はそれに答えず、眼鏡の奥から食い入るように文字を見つめた。見ている内に、字の線の一本一本がほどけて細い針となって、彼の頭をチクチクと刺激してきた。
――この文言を、自分は見たことがある。
しかし、それをいつ、どこで目にしたか、記憶をたどっても思い出せない。
甲本は仕方なく、手塚の方を振り返った。
「まずは看守たちに報告すべきでしょう。私はここに残るので、手塚さんが行ってくれますか?」
「引き受けました」
手塚は即座に言った。この気色の悪い空間に長くとどまっていたくなかったのだろう。「すぐに戻ってきます」と言って、早足で観音堂から出て行った。
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