222 / 370

第12章⑪

 巣鴨プリズンの敷地は広い。クリアウォーターが鳴らした警報の音が聞こえず、さらに騒ぎにまだ気づいていない人間が、わずかだが残っていた。  甲本貴助(こうもときすけ)とその同房の囚人、手塚である。二人は倉庫の清掃を終えた後、監房の裏手にある散歩道を通って、運動場の方へ行っていた。  巣鴨プリズンでは緊急事態が生じた場合、兵士たちが真っ先に囚人の所在を確認して、彼らを独房なり雑居房なりに戻す手はずになっていた。当然、甲本と手塚も対象者である。  ところが、兵士たちの間でやり取りが行われた時、ひとつの行き違いが生じた。  プリズンの囚人たちは様々な労働を課せられている。それを割り振るのは、エンジニア・オフィサーと呼ばれる部門なのだが、そこに所属する兵士が今日の囚人たちの当番表を確認した時、甲本と手塚についてこう言った。 「彼らは(アウトサイド)に掃除に行っている」  着任して日の浅いその兵士は、に行っていると言ったつもりだった。  だが、これを聞いた監房エリアの兵士は、に行っていると受け取ってしまった。実際に当日、囚人の集団が整地作業で市街に出ていたので、余計に確認を怠ってしまったのだ。  その結果、甲本と手塚は呼び戻されず、また監房で生じた騒動も知らずに、掃除道具をかついで今日、最後に清掃することになっていた観音堂をめざして歩いていた。  観音堂は、運動場の一角に設けられた刑場――絞首刑を執行する場所だ――の近くにある。  こじんまりした平屋の建物で、内部には拝礼用の祭壇が設けられた。戦前、巣鴨プリズンがまだ東京拘置所と呼ばれていた時代、祭壇には観音菩薩の掛け軸がかけられていた。死刑囚が刑場に向かう前に、最後にここで観音の御姿を拝して刑にのぞんでいたという。しかし、東京拘置所がアメリカ軍に接収され、巣鴨プリズンと名前を変え、戦犯収容に特化した施設となった後は、ずっと使用されないまま、放置されていた。  その観音堂はつい最近になって、週に一度、必ず清掃が行われるようになった。理由は説明されていない。しかし、多くの囚人はあらかた見当がついていた。 ――おそらく前のように、死刑を執り行う死刑囚に、最後の時間を観音堂で過ごさせるつもりなんだろう。  事の真相は不明だ。ただ、かつて掛け軸がかけられていた祭壇の中はいまだ空のままだ。前に使われていたらしい焼香用の香炉が置かれているが、それがかえって寂寞を感じさせる。  実際にここが本格的に使われる時は、本庁舎にある礼拝堂のように、死刑囚の信仰に応じて、十字架が置かれたり、仏像が祀られたりするのではと噂されていた。  観音堂の戸を開けて中に入った瞬間、甲本は思わず鼻をつまみたくなるほどの異臭を覚えた。手塚も同様だったらしい。それまで甲本の背後で、キリストの教えについてとりとめなく話していたが、臭いをかぎとるや、さすがに異変を感じて口の動きを一時停止させた。 「なんでしょうね、このくさいのは…」 「……とりあえず換気しましょう」  甲本は手塚をうながして、窓を開けさせた。  空気を入れかえると、こもっていた熱気が逃げていき、いくぶん臭いはましになった。それでも完全には消えない。  さらに、どこからか、うわん、うわんと、ハエの羽音まで聞こえてきた。  手塚は薄気味悪そうに堂内を見わたす。それと対照的に、甲本の表情には不安のかけらもない。不快げに眉根を寄せ、元情報将校だった男はハエの飛び交う音に耳をすました。 「…どうも、一番奥に安置されている祭壇から聞こえてきますね」  甲本はつかつかと祭壇に歩み寄ると、観音開きの扉に手をかけ、一気に開いた。  その途端、強烈な死臭がまともに顔にふきつけてきた。  甲本はとっさに腕で口と鼻を覆った。  祭壇の中で、一匹の獣が血をまき散らして死んでいた。  最初は犬か猫かと思った。だが、よく見るとそれは小さな豚だった。のどをかき切られている。そして、その傷口に、死肉の臭いをかぎつけたハエが何匹もたかっていた。  おまけに祭壇の内側にあったのは、豚の死骸だけではなかった。殺された哀れな獣の血で書かれたのだろう。漆喰で覆われた白壁に、異様な文言が血の赤文字で刻まれていた。 ――此身死了死了 一百番更死了 白骨為塵土 魂魄有也無―― 「うわっ! ひどい…」  甲本のうしろからのぞきこんだ手塚が、小さく叫んだ。 「一体、誰の仕業でしょうか。これは、悪ふざけで済む域をこえていますよ」  甲本はそれに答えず、眼鏡の奥から食い入るように文字を見つめた。見ている内に、字の線の一本一本がほどけて細い針となって、彼の頭をチクチクと刺激してきた。 ――この文言を、自分は見たことがある。  しかし、それをいつ、どこで目にしたか、記憶をたどっても思い出せない。  甲本は仕方なく、手塚の方を振り返った。 「まずは看守たちに報告すべきでしょう。私はここに残るので、手塚さんが行ってくれますか?」 「引き受けました」  手塚は即座に言った。この気色の悪い空間に長くとどまっていたくなかったのだろう。「すぐに戻ってきます」と言って、早足で観音堂から出て行った。

ともだちにシェアしよう!