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第12章⑫
邪魔者がいなくなった後、甲本はもう一度、祭壇の惨状を眺めわたした。
後片づけは、かなり手間がかかりそうだった。豚の死骸を片付け、血文字を消し、さらに焼香用の香炉からこぼれた灰を掃いて、全体を清める必要がある。手塚が言ったように、単なる悪戯では済まされない。そこには、明確な悪意があった。
――誰の仕業か。
囚人か?――否。生きた子豚や、その首をかき切ることができる刃物を手に入れることは、不可能とは言わないが、非常に困難である。
ならばアメリカ兵か?――これもありそうにない。犯人は豚の血で漢字を書き残していった。アメリカ兵の大半は日本語を書くことはおろか、話すこともできないのだ――。
「…いいや」
アメリカ軍の中には、例外的に日本語を習得した将兵たちがいる。U機関のダニエル・クリアウォーターから何度も尋問を受けた甲本は、彼らの存在をよく知っていた。
日系二世を中心とした語学兵だ。彼らであれば、プリズン内に必要なものを持ち込むこともできるし、漢字を書くこともできる。
――ほかには? アメリカ軍の語学兵以外に、この芸当ができる人間はいるか…?
突然、甲本の背後でガタンという音が上がった。
――手塚がもう戻ってきたのか。
甲本はそう思って振り返り――予測が外れて驚いた。
観音堂の入り口に立っていたのは、午前中に倉庫で遭遇したカナモト牧師だった。
「……ここで何をしている?」
開口一番にカナモトは言った。聖職者にふさわしくないぶしつけな口ぶりに、甲本は再び驚かされた。さらに言えば、牧師こそ何の用があってこんな場所に来たのかと、よほど聞き返したかった。
しかし、相手の剣呑な目つきに気づいた甲本は、反射的に言葉を飲み込んだ。
「観音堂の掃除をするように命じられまして……」
甲本はいかにも人畜無害といった態で答えた。祭壇に背を向け、全身でカナモトに向き直る。背中に、自然と緊張が走った。
牧師が先刻見せた穏やかな物腰は、今や安物の金メッキのように剥がれ落ちていた。目つきも顔つきも、まるで別人のような鋭さだ。目を合わせているだけで、抜き身の刃をのど元に突きつけられているような錯覚を覚える。
甲本は直感で、真実をつかんだ。
祭壇を豚の血で汚したのは、囚人ではない。日系二世の兵士でもない。目の前にいるこの男――カナモトイサミだ。
ハエの飛び交う音が耳につく。血のにおいが、鼻の奥について離れない。額に汗の玉が浮かんで、流れ落ちる――……。
それらが混然一体となって、古い記憶を呼び起こした。甲本は思わず、声を上げかけた。
祭壇に記された一連の文字をどこで見たか、ようやく思い出した。
ちょうど十年前の夏。甲本がまだ東京憲兵隊に籍を置いていた頃のことだ。
皇太子殿下の乗った御料車を狙い、ひとりの朝鮮人の男が自爆テロをこころみるという、由々しき事件が帝都で発生した。幸い皇太子は難を逃れたが、関係者や沿道の通行人、そして実行犯の男が爆弾で死んだ。男の遺留品となったカバンは押収され、徹底的に調べられたのだが、その中から一編の詩を書きつけた紙片が見つかった。
詩の題は「丹心歌」。
自爆した朝鮮人の男の名は金光洙 。
そして、金光洙の弟である金蘭洙 を拘束し、取り調べたのは、ほかならぬ甲本だった。その金蘭洙が名乗っていた日本名こそ――金本勇 だった。
…血管がはげしく脈打つのを、甲本は感じた。
この世界に神はいない。が、人知の及ばない偶然は確かに存在する。
甲本は観音堂の戸のかげに、身を隠すように立つ牧師を穴があくほど見つめた。甲本自身がそうであったように、この男も予想だにしていなかっただろう。
自らの正体を看破してしまう人間に、このような形で出くわすとは。
――なんでもいい。理由をつけて、この場から離れるべきだ。そして、一刻も早くプリズンの管理者たちに報告する必要がある。
しかし同時に、甲本は確信していた。この男の前で、うかつな行動を取ってはならない。
はた目には、ひどく滑稽に映っただろう。
甲本とカナモトは、にらみ合ったまま動けなくなった。
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