224 / 370

第12章⑬

 細い糸の上でかろうじて保たれていた均衡は、崩れる時も突然だった。  甲本は、こちらに近づいてくる足音を聞いた。その直後、外から手塚が観音堂に駆け込んできた。よほど急いで来たのだろう。かなり息があがっていた。 「甲本さん! 看守に会ったは会ったのですが、ひどくイライラしていましてね。今すぐ自分の監房に戻れと言われたんですよ。観音堂に来てほしいと、伝えはしたんですけど……」  手塚はそこでようやく、戸のかげで息をひそめる男に気づいた。  そして、自分と甲本の運命を決める決定的なひと言を口にしてしまった。 「これは、牧師さま。こちらにいらっしゃったんですね。そうそう、どうしてか知りませんが、看守たちがあなたを探していましたよ――」  カナモトに向かって、手塚が笑いかける。  その瞬間、それまで彫像のように微動だにしなかった男が、コマ落としのフィルムのような動きで右手を翻した。  あまりに速すぎて、甲本はすべてを追うことができなかった。ただ、牧師の手に握られた短刀の輝きと、それが吸い込まれるように手塚の左胸に突き立てられる瞬間だけは、はっきり目に焼きついた。  刺されてなお、手塚は笑っていた。その笑いはすぐに困惑に、そして恐怖に変わった。  カナモトはそれを見ても顔色一つ変えない。慈悲のかけらもない手つきで短刀をひねり、手塚の心臓を徹底的にえぐった。  カナモトが短刀を抜くと、傷口から血が勢いよく噴き出した。暗赤色の液体が、扉のすりガラスと壁、そして牧師の右半身を、まだら模様に染める。崩れ落ちる手塚の身体を、カナモトは邪魔だとばかりに蹴り飛ばす。それから短刀を振って濡れた血を落とすと、甲本の方へ向き直った。 ――殺される。  甲本は後ずさる。武器になりそうなものなど、何も持っていない。掃除道具さえ、手の届かないところへ置いてしまっていた。もとより、甲本は武道の心得などほとんどないに等しい。  抵抗したところで、死体となって転がる未来が変わるとは思えなかった。 ――因果はめぐるか…。  そんな考えが一瞬、甲本の頭をよぎった。かつて虐殺する側に身を置いた自分が、虐殺される側で最期をむかえる。ある意味で、帳尻の合う末路と言えるのではないか……――。  だが、すぐに猛烈な腹立たしさがわいてきた。 ――いいや、違う…!。  甲本が行った殺戮と、眼前の男が今まさに行おうとしている殺人には、なんの因果関係もない。甲本の知らぬ理由で、牧師は手塚を殺した。そして、殺人の目撃者となった甲本を殺そうとしている。ただそれだけだ。 ――むざむざと殺されてやるいわれはない。  カナモトがこちらにやって来る。甲本はなおも祭壇まで下がったが、そこで退路を断たれた。もう後がない。  短刀がまさに心臓に狙いを定めようとした時、甲本は背後に手を回して叫んだ。 「金蘭洙! 貴様、金蘭洙だろう?」  それは命がけの賭けだった。  カナモトの顔に正真正銘の驚きが走り、動きかけた短刀が止まった。  その瞬間、甲本は後ろ手でつかんだ焼香用の香炉を、牧師めがけて投げつけた。  さすがにカナモトもこれには虚を突かれた。とっさに左腕で顔をかばう。腕に当たった香炉から、半分くらい残っていた灰がばっと宙に散った。灰の一部が目に入り、カナモトはほんのわずかの間、視界をうばわれた。  そのスキを狙って、甲本は開け放っていた窓に駆けよった。窓枠に手をかけ、そこから転がるように脱出を果たす。  立ち上がるのももどかしく、甲本は一目散に走り出した。 「おおい! 誰か来てくれ…!」  甲本の叫び声に、つんざくようなガアンという音が重なった。  熊にでも突き飛ばされたような衝撃が背中を貫いた。足がもつれ、そのまま甲本は地面に崩れ落ちる。そこにさらに追撃が来た。二発目の銃弾が肩甲骨に命中し、修復できないくらいにめちゃくちゃに打ち砕いた。  その時になって甲本はようやく、牧師が短刀だけでなく拳銃を隠し持っていたこと、そして自分が二度撃たれたことを理解した。

ともだちにシェアしよう!