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第12章⑯
……こうして、カナモトは当初の計画をくじかれたものの、奇跡的に脱出を果たした。巣鴨プリズンが東京拘置所として始まって以来、人間がコンクリート壁を物理的に乗り越えて外に逃れることに成功したのは、これが最初のことであった。
カナモトが通った後には、いくつもの死体が残された。
しかしながら、いまだ息絶えていない男がひとりだけいた。背中と左肩に銃弾を二発受けた甲本である。もっとも、此岸とその向こう側の境界あたりをさまよっていて、いつ意識が永久に暗転してもおかしくないありさまだった。
何度目かの覚醒で、甲本は頭上にプリズンの兵士たちの顔を認めた。口々に英語でなにか言っている。だが、頭は靄がかかったようで、うまく理解できない。甲本の方でも伝えたいことがあったが、英語を使うだけの思考力はとっくに尽きていた。
「……いいか、あの牧師もどきは――」
せめてもと、口を動かし言葉をつむぐ。だが、やはり伝わった様子はなく、兵士たちの顔には困惑が浮かんだだけだった。
甲本は失望した。近い将来に絞首刑になりそうだったが、どうにもまったく想定していなかった形で自分は死を迎えるらしい。そう悟ると、余計に自分を撃った男に対して腹が立った。
―ーあの牧師もどきは、大きな嘘をついている。
それを知っているのは多分、甲本だけだ。そのことを何とか伝えねばならない。せっかく牧師の嘘を暴いて一矢報いる機会があるのに、それを果たせないのでは死んでも死にきれない。
しかし、時間は無為に過ぎていく。意識が再び遠ざかりかけ、甲本はいよいよ、あきらめかけた。
彼を引きとめたのは、思いがけない声だった。
「しっかりしろ、甲本貴助! こんなところで死ぬ気か?」
ついに、幻影が現実を侵し始めたのかと思った。甲本が忌み嫌うアメリカ人の将校――ダニエル・クリアウォーターがいて、彼に向って日本語を話していた。
しかし、それがまぎれもない現実と分かると、甲本はようやく気づいた。
――なんと…! ずっと、だまされていたのか。日本語ができないふりをして、わざわざ通訳まで伴って――。
甲本は怒りを覚え、今までより一層、クリアウォーターのことが嫌いになった。
だが、今この場において、ほかに選択肢はなかった。
甲本は残された気力をかき集め、敵だったアメリカ人の男に言った。
「聞け。あの牧師はカナモト…イサミ……やつの名前……人 だ……」
不明瞭な部分をのぞき、クリアウォーターが聞きとれたのはそれだけだった。ひゅうひゅうという息が、語尾に重なる。
クリアウォーターはさらに耳をかたむけたが、無駄だった。甲本は意識を失っていた。
……混乱の渦中、クリアウォーターとカトウは観音堂の入口に立った。
床にはまだ、牧師の手にかかったらしい囚人の亡骸が、横たわったままだ。
薄暗い堂内。壁面と床を染める血痕。死臭。ハエの飛び交う音――そのすべてが、半月前に西多摩の神社で起こったことの再演だった。
ただし祭壇に残された血文字は六文字から二十四文字に増えていた。
――此身死了死了 一百番更死了 白骨為塵土 魂魄有也無――
カトウは呆然と立ちつくす。
そのかたわらで、クリアウォーターは自らの犯した失態を改めて呪った。
観音堂の窓から風が吹き込み、二人の顔をたたいた。
飄飄 という不気味な音は、ここで刑死した囚人の末期 のうめきにも、まんまと逃げおおせた殺人者の高笑いのようにも聞こえた。
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