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第13章⑥

 黒木が先をうながすように、舌で金本の唇の裏をなめる。金本が口を開くと、あっという間に口腔へ侵入してきて貪り始めた。そして、それだけでは足りないとばかりに、ツタのように手足を絡ませてきた。  黒木に誘われるように、金本も畳の上に横倒しに転がった。黒木の手が金本のセーターの下に伸びてくる。この手のことに全く(うと)い――というより無知に近い金本は、ただただ黒木にされるがまま、逆らわない。ただ、指先で胸のあたりをいじられた時は、くすぐったさに思わず身を引こうとした。だが、黒木がそれを許さなかった。 「ちょっとだけ、がまんしろ」  言いながら、セーターを強引に腹の上のあたりまで下着ごと引きあげてしまった。 「じきによくなる」  金本は本当かと疑ったが、それを口にする前に黒木にまたキスされた。  反論の言葉が二人分の唾液と一緒にのどの奥へおちていく。舌をからませている間に、だんだん頭がぼんやりしてくる。さらに時間が経つと、本当に黒木の言った通りになった。  得体が知れない、けれども間違いなく心地よい感覚に、金本は低くうめく。閉じていたまぶたを開けると、黒木が気づいて忍び笑いをもらした。 「気持ちいいか?」 「…ああ」 「なら、もっとよくしてやる」  黒木は胸に這わせていた手で金本の足の間をまさぐった。服の上から少し触れられただけで、金本は自分のものが硬くなるのを覚えた。 「栄也…」  黒木の名を呼ぶ。抑えきれない欲情が出口を求めている。あと少し続くだけで、暴発しそうだ。  ところが、金本がいくら待っても黒木から返事が返って来なかった。先ほどまで忙しく動いていた舌も、いつの間にか動きをやめている。そのかわり、安らいだ寝息がその口からもれていた。 「……おい」  見れば、黒木は目を閉じてスイッチが切られた発動機よろしく寝落ちしていた。  金本はあきれて、かける言葉もなかった。もっとも何か言ったところで、相手に届きはしないだろうが。  当然と言えば当然の結果だった。戦闘機を駆って高度一万メートルまで飛び、敵機にぶつかって落下傘降下したあと、降りた場所からまた徒歩と電車で何時間もかけて戻ってきたのだ。 今、思えば下宿にたどりついた時点で力尽きなかったのが不思議なくらいだ。 「…どうするんだよ、」  硬くなった自分のものを見下ろし、金本はひとり文句を言った。ほとんどぼやきに近い口調だった。  しかたなく、ごろりと寝そべって天井のしみを数えはじめた。五十を過ぎたあたりで、ようやく欲求がおさまってくる。まだ熱が下腹部にこもっていたが、極力無視して起き上がった。  火鉢の始末をして隅に寄せる。最初は黒木を隣室へ運ぼうと思ったが、それより布団をこちらに持って来た方が早いと考え直す。  靴下を脱がせて寝かせる間も、黒木はまったく目を覚まさなかった。熟睡している。 「さてと……」  金本は迷った。自分はこれからどうすべきか。病院まで夜道を歩いて戻るか、それともここに残るか。残るとしても、どこで寝るか。布団は見たところ一組しかなく、その上には今、黒木が横たわっている……。  子どものように眠るその顔を、金本は眺める。  ひとつ何かが違っていたら、黒木の寝顔ではなく死に顔を見ることになったかもしれない。   あるいは、それすらかなわなかったかもしれない――そんな不吉な考えに身震いする。    けれども、それが金本たちのいる世界の現実だった。  今日、生命があっても、明日それがある保証はまったくないのだ。  そして、金本ははからずも黒木を失った時の後悔の味を、すでに知ってしまっていた。 「………」  金本は灯りを消すと、黒木の眠る布団の中にもぐりこんだ。  少し前には考えられなかったことだ。狭い場所に、誰かと二人きりでいると自分の方から逃げ出すのが常だった。けれども今は苦にならない。黒木の呼吸に耳をすませ、身体の揺らぎと体温を感じていると――生きていることを(じか)に確かめていると、不安にならずに済んだ。大切なものは今、確かに自分の腕の中にあった。  外では昼も夜も、戦争という名の嵐が吹き荒れている。だが、この部屋の中は静かで安らかだ。この静寂も安逸も、ほんの数時間しか続かないかりそめのものだと、金本は理解している。だからこそ、逃がしてはならないし、逃がしたくない――。  逃げて後悔することは、もうたくさんだった。  黒木が動いて、寝返りを打った。こちらに向けられたうなじに、金本は顔をうずめた。  目を閉じると気づかぬうちに眠りに落ちていた。

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