235 / 370

第13章⑧

「あれ。開いてる…?」  今村が玄関の戸を引くのと、黒木が金本の靴をすくい上げて後ろ手でかくすのが、ほぼ同時だった。戸を開けた途端、両手を後ろにまわして直立不動の姿勢を取る黒木の姿を認めた今村は目を白黒させた。 「――よう。朝っぱらから、ご苦労さん」  言葉と裏腹に、黒木の口調にねぎらいの色は極めて薄かった。  そこに松岡が今村の後ろから合流する。黒木を見て、こちらも今村と似たり寄ったりの反応を示した。 ――間が悪いんだよ、この阿呆(あほ)ども!  まことに身勝手な理由で、黒木は二人をまとめてにらみつけてやった。普段であれば、今村も松岡もすくみ上がるところだ。しかし、今日に限っては、感激の方がまさったようだ。 「大尉どの! やはり生きていらっしゃったんですね」  喜びもあらわに今村は言う。黒木は顔をしかめた。 「まるで、俺が死んだと思っていたような台詞だな」 「おっしゃる通りです。…あ、いえ実は――」  今村は急いで事情を説明した。その内容は昨晩、黒木が金本から聞いた話とおよそ同じだったが、一部、新しい情報が加わっていた。 「撃墜されたB29が電話線を巻き込んで墜落したせいで、昨日、大尉どのが降りられた付近一帯が電話のつながらない状態になっていたんです。大尉どのが生存していることは、憲兵の方から連絡が入って、やっと判明したんですよ」  それが今朝方のことだったという。調布飛行場の戦隊本部が大騒ぎになったのは、言うまでもなかった。なにぶん、「特攻隊員三名が壮烈な戦死」と、すでに飛行師団や大本営へ報告したあとである。それからまもなく、青梅にいる『はなどり隊』の笠倉曹長から、当初、黒木の死体と思われたものが実は墜落したB29の搭乗員であったと報告が入ったことで、黒木の生存はようやく確実視されることとなった。  しかし、肝心の黒木本人が一向に姿を見せない。落下傘で降りた地点から徒歩で去ったらしいが、それ以降、所在がつかめなくなっていた。 「とにかく探して連れてこい」  戦隊長の命令を受けた今村と飛行場に残っていた『はなどり隊』の隊員は、総出で心当たりのある場所を当たった。  そしてついに、この下宿を探し当てたという次第だった……。  今村の話を聞き終えた黒木は、金本の飛行靴を後ろ手で隠し持ったまま「なるほど」ともっともらしくうなずいた。いい加減、靴が重くなってきた。  その時、今村は黒木にたずねた。 「そもそも、どうして飛行場にまっすぐ戻らなかったんですか?」 「…道に迷ったんだよ。暗かったし、あいにく照明を何も持っていなかったんだ。なんとか、自分の下宿まではたどり着けたが、明るくなってから戻った方がいいと思って、ここで休んでいたんだ」  黒木はもっともらしい嘘をすらすら並べた。今村は疑いもせず、あっさり信じた。 「お疲れのところ申し訳ないですが、すぐに飛行場に戻ってください。戦隊長どのがお待ちです。それに無事な姿を見れば、皆、喜びますよ」 「…そいつはどうだか」 「え?」 「なんでもねえよ。話は分かった。貴様ら、先に飛行場に戻っていろ。支度してすぐに追いかける」 「いえ。こちらにはトラックで来ましたので、一緒に参りましょう」 「…そうかよ。じゃあ、表で待っていろ」  今村と松岡が外に出る。戸が閉まった直後、黒木は持っていた靴を壁めがけてぶん投げた。  そのまま大股で部屋を横切ると、乱暴な手つきでふすまを開けた。  四畳半の片隅で息をひそめていた金本に向かって、黒木は「ふん」と鼻をならした。 「聞いていたな」 「ああ……」 「俺はこれから今村たちと、飛行場へ向かう。俺が出ていったら、お前も病院へ戻れ」  黒木は言い捨てると、早くも隣室へもどり身支度をはじめた。その姿を、金本はふすまごしに眺めた。先刻、今村との会話で黒木が発したひと言が、頭にこびりついていた。 ――そうだ。黒木が無事に戻ってきたことを、喜ばない人間がいる。  軍の上層部にいて、黒木を特攻隊にねじこんだ者たちだ。  彼らが、生還した邪魔者(黒木)をどう扱うか分かったものではなかった。  ひょっとすると激戦が続くフィリピンあたりへ転属させ、今度こそ戦死させるかもしれない。あるいは、再び特攻へ出すこともありえる――考えるにつれ、金本は暗澹(あんたん)たる気分になった。  そこへ着がえを終えた黒木が戻ってきた。金本は自分が抱いた懸念を話そうとする。  だが、その前に相手の口で口を塞がれた。 「しけた面、しやがって――不吉なこと考えているだろう? お見通しだ」  唇を離して、黒木はにやっと笑った。 「せっかく拾った命だ。こうなったら、そう簡単に手放してやるもんか。少なくとも、昨日の続きをするまではな――合鍵を庭のムクゲの鉢の裏に入れてある。それを使って、鍵かけてけよ」  言い残すと、その場に金本を残してさっさと出て行った。  外でトラックのエンジンの音が上がり、まもなく遠ざかって行った。金本はしばらく座っていたが、やがて自分も身支度をはじめた。  いくら心配したところで、どうにもならない。  今はただ、運命がよい方向へ向かうのを祈るしかなかった。  外に出て、庭にまわりこんだ金本はそこで頭を抱えたくなった。 「…ムクゲって、どんな形の植物だっけ?」  目につく限り、少なくとも二十くらいの鉢植えがそこかしこに並んでいた。

ともだちにシェアしよう!