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第13章⑭

 金本は一週間ほどで、歩き回ってもほとんど痛みを感じない程度にまで回復した。おとなしくしていた甲斐あって、軍医からもようやく「退院してもよし」という許可を得た。  病院で過ごす最後の夜。夕食の後、金本は病室で手紙をしたためていた。  そこに、黒木が何の前触れもなくやって来た。  黒木はこの日も昼間、金本のもとを訪れており、その帰り際に「明日来る」と言っていた。そのため、この突然の来訪に金本は少なからず驚いた。 「こんな時間に来るなんて、何か緊急ですか?」 「いいや。そうでもない」  黒木はあっさり言った。飛行服は着ていたが、慌てている様子はまったくない。 「けど、調布飛行場に来いと、戦隊長どのからのお達しだ。俺とお前、二人ともだ」 「今からですか?」  黒木がうなずく。金本は首をかしげた。緊急ではない。けれども、こんな時間に呼び出しがあるというのも奇妙な話だ。  黒木は金本の手元にちらりと目をやって告げた。 「すでに、ここの医者に話はつけてある。手伝うから、着がえて荷物をまとめろ」  まだ疑いが晴れなかったが、金本は黒木に言われるまま仕度をはじめた。 「これ、家族あてか?」  金本がベッドに折りたたんで置いた手紙を指さし、黒木が聞いてきた。黒木は義母たちと不仲である。そのことを知っている金本は、若干うしろめたさを感じながら答えた。 「先日、父からの手紙がとどいたので。その返事です」 「息災か?」 「はい。おかげさまで」  兄の光洙と叔父の哲基の死によって、父も、母も、そして長兄である仁洙とその家族も、少なからぬ打撃を受けた。あれから七年。歳月がやっと故郷の肉親たちを(いや)そうとしている。父からの手紙は三男の蘭洙――金本の無事を祈るとともに、仁洙にようやく息子が生まれたことを隠せぬ喜びとともに伝えていた。  折り返しの手紙で金本は祝いの言葉とともに、新たに生まれた甥に後から贈り物をすると書いている最中だった。  何を送ろうか――金本が考えていると、ふとこちらを見る黒木と目が合った。 「…なあ。お前、ずっと朝鮮に帰っていないんだろう。帰る気はないのか?」 「帰りたくても無理でしょう。咸境北道(ハンギョンブクト)は、ここからは遠すぎます」 「確かにそうだが、まったく不可能というわけでもないだろう。上に願い出て、帰れる時に帰っておいたらどうだ?」  その時になって、黒木が気を回しているのだと、金本は遅まきながら気づいた。  金本は静かに、しかしきっぱり言った。 「…帰らない」  今、自分がいるべき場所は両親のもとではない。  それと分かる程度の微笑を、金本は黒木に向けた。 「戦争が終わるまで、ずっとお前のそばにいる」  久しぶりに身に着けた航空服がちょうどコートがわりになるくらい外は寒かった。  元々、道路には街灯がない上、灯火管制が敷かれているので、病院から一歩、外に出ると真っ暗だ。トラックの迎えもない。金本はいよいよ「妙だな」と思った。それでも、懐中電灯を持った黒木が「行くぞ」と歩き出したので、おとなしくあとについて行った。   どこかでフクロウが鳴いている。飛行場まではそれなりに距離があるものの、一本道である。月が出ているので、懐中電灯なしでもたどり着けそうだ。  百メートルほど進んだ頃か。前を行く黒木が急に立ち止まって、金本の方を振り向いた。 「あ。そういえば、飛行場に出頭しろって話。あれ、よくよく思い出したら、今晩じゃなくて明日の昼だった」 「……はあ!?」 「悪い、悪い。忘れてた」  いかにも取って付けたように黒木がうそぶく。謝る気など、みじんも感じられない。  にやついたその顔は、いたずらに成功した悪童そのものだった。 「というわけで。どうする? 俺のうちに来て、するか?――」  それを聞いて、金本は黒木の意図をようやく察した。 「最初からそのつもりで、わざと間違えたんでしょう」 「はは。お前、バカ正直だから、軍医をだましてなんて言ったら、間違いなく反対するだろう」  黒木の笑い転げる姿に、金本はむっとした顔つきになる。荷袋を置き、無言で黒木の腰に手を伸ばすと、そのまま乱暴に抱き寄せて口づけた。 「――俺を見くびるなよ、栄也」  金本は言った。 「お前とこうするたびに。俺が何度、布団の中に引きずり込もうと思ったか、想像もつかないだろう」 「…へーえ。頭の中でしてたってか?」  黒木はツンとあごを上げ、金本の額を指でぐりぐりと押した。 「お前の妄想の中で俺はどんな淫らなこと、されてたんだ?」 「言わない」 「いや、言えよ」 「言ったら、お前でも腰をぬかす」 「ほうほう、そうかよ。いいな、腰がぬけるくらいに激しいのも…まあ頭の中じゃ、なんでも好き勝手できるし、口では何とでも言えるけど、実際はそう、うまくいかないからな」  言うや、黒木は金本の脇腹に肘鉄(ひじてつ)を入れ、抱擁からするりと抜け出した。 「そら! したけりゃ、まずは捕まえてみろよ!」 「この…!」  金本が腕を振り上げる。黒木はべえと舌を出した。 「ほらほら、鬼さんこちら。手の鳴る方へ!」  金本を煽り、そのまま黒木は脱兎の勢いで駆けだす。金本も荷袋を担ぎなおすと、治ったばかりの足を使って、全力で追いかけた。 「待て、こら!」 「追いつけるもんなら、追いついてみろ!」 「言ったな。追いついたら、その尻を棒でひっぱたいてやる!」  二人とも、まるで小学校の男子そのものだ。とてもではないが、帝国陸軍の大尉と曹長が交わす会話ではない。だが、黒木も金本もまったく真剣で、いかにも楽しそうだった。  懐中電灯が格好の目印になると早々に悟って、黒木はそれを消している。しかし、月明りがあるので、思ったほど目くらましの効果はない。暗さの中、時折、片方が道のくぼみや木の根に足をとられて転ぶと、もう一方がすかさずやって来て、その上に覆いかぶさった。取っ組み合いが起こり、笑い声が混じる。  それが途切れて、またしばらくすると、追いかけっこがはじまった。  近くの木に止まっていたフクロウが、人間二人を迷惑そうに見下ろす。これだけ騒がれては獲物にありつけないと言わんばかりだ。まもなく、賢い夜鳥はバカ騒ぎを繰り返す人間たちに愛想をつかして、よそへと飛び去って行った。

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