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第13章⑱
結局そのあと、金本と黒木は二回交わった。終わった後、いつ眠りについたかさえ定かでない。そして目が覚めた時には、とっくに日が昇っていた。
「起きろ、寝坊すけ」
黒木に蹴られて、金本はようやく起きた。直前まで、また夢を見ていた。そのことを黒木に言うと、当然のように「何の夢だ?」と聞かれる。
金本は蹴られた腰をさすって答えた。
「…自分が雁 になって川をわたっていた」
「雁って、渡り鳥の?」
「ああ」
「お前一人だったのか? あ、この場合は一羽か」
「いや。もう一羽いた」
それを聞いた黒木は笑って、麦飯でつくったにぎりめしを金本に手渡した。母屋の女中に頼んで握ってもらったそうで、味噌汁までちゃっかりもらって来ていた。
「その一羽は俺か?」
「…多分」
金本はそう答えたが、黒木に違いないという確信があった。
「幸先のいい夢じゃないか。また一緒に飛べるってことだろう」
「そうだな」
「なんだ? あんまり、うれしそうじゃないな」
「…いや。さっきからずっと腰がだるくて」
風邪かもしれない、と言ったら、黒木が笑い転げた。
「普段使わないところの筋肉を、一晩中、動かしてたからだろ! はりきりすぎたな」
そこでやっと金本は筋肉痛の原因が、昨夜の痴態にあることに思い至った。
おかげで、にぎりめしを頬張って味噌汁をすする間、ずっと黒木に冷やかされた。
金本は食べるのに集中しているふりをして、ほとんどしゃべらなかった。自分の無知が恥ずかしかったのもある。しかし、それ以上に夢の内容が、妙に心にひっかかっていた。
夢の中で雁になって飛んでいた金本は、ずっと降り立てる場所を探していた。しかし、いくら飛んでも見つけることができない。このままでは力尽きて落ちてしまう、と焦っていた時、黒木に蹴飛ばされて目覚めたというしだいだった。
普段の金本なら、気にも留めなかっただろう。縁起を担ぐほうではないし、非科学的なことは信じない性質 だ。しょせんはただの夢と、忘れてしまっていいはずだ。
にもかかわらず、夢で感じた生々しい焦りと不安は、朝食を食べ終わることになっても完全にぬぐいさることができなかった。
「いいか。俺は今朝、病院へ行ってお前と合流した。そのあと、一緒に飛行場に行ったことにするからな」
「分かりました」
金本はいつもの口調になる。黒木との関係は、できることなら今後も第三者に知られずにすませたい。そのためにも、人前でうっかり黒木とタメ口をきいたり、朝鮮語で話したりしないよう気をつけなければならなかった。
こうして、金本は一週間ぶりに調布飛行場へ戻って来た。久しぶりに東西と南北に伸びて交わる滑走路や、駐機中の飛燕を目にすると、「帰って来た」という思いがこみ上げて来た。八月に来てから、まだ四ヶ月も経っていない。それでもこの場所こそが、自分の「家」なのだと金本はしみじみと実感した。
「ピストへ行って今村たちの顔を見るのは、あとでもいいだろう」
黒木は金本をうながし、直接、戦隊本部へ向かった。
その途中、通りかかった掩体壕のかたわらで、一機の飛燕が整備を受けていた。少し離れたところで、その飛燕の搭乗員らしい男が、まずそうにタバコを喫っている。男が「はなどり隊」の笠倉孝曹長であることに、金本はまもなく気づいた。
黒木と金本の姿を目にした笠倉の顔に一瞬、形容しがたい表情がよぎる。笠倉はそそくさとタバコを足元に投げ捨てて、二人に挨拶した。
「今日から復帰ですか?」
「まあな。これから戦隊長のところへ行ってくる」
黒木はそう言って、再び歩き出す。笠倉から少し離れたところで、金本に言った。
「あいつ、俺たちの顔を見て、なんであんなにビクついたんだ?」
「さあ…」
金本は首をかしげる。笠倉の奇妙な反応に、金本も引っかかるものを感じていた。
しかしすぐに、笠倉が少し前に失態をおかしたことに思い至った。
「…以前お会いした時、笠倉曹長を叱責されませんでしたか?」
「叱ったな。俺を米兵と間違えて、死んだとぬかしやがったから」
「殴ったんですか?」
「いいや」
本当だとしたら稀有 なことだ。よほど機嫌がよかったのだろうと、金本は思った。
なにせ黒木は日頃、人を殴ることに一切、躊躇がない男である。
とりわけ虫の居所が悪い時などは――言うまでもない。
とすれば――。
「叱った時、なんと言ったんですか?」
「そんなもん、いちいち覚えてねえよ……あ。そういや、『次に会った時、針と糸を持ってきて、その役立たずの口を縫いつけてやる』くらいのことは言ったか」
「それですよ」
金本は断言した。黒木は、あきれたように首をふった。
「おいおい、ただの脅し文句だろうが。本気にするか、普通?」
「…以前、整備兵に『なます切りにしてやる』といったこと、覚えています?」
「忘れた」
「その翌日、本当に日本刀片手に兵舎に乗り込んだことは?」
「……ああ、そういえば」
今さら思い出したように、黒木は手をポンとたたいた。
金本はそっと後ろをうかがった。こちらを見ていた笠倉が、あわてて目をそらした。きっと黒木が完全に遠ざかるまで、安心できないのだろう。気の毒に。
金本は心の中で、新顔の曹長に同情した。
それが的外れな心配であることに、金本はついに気づかなかった。
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