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第13章㉒

 笠倉たちがそういう会話を交わした三日後――。  この日の午後、大本営参謀部の河内作治大佐は、所用で教導航空軍司令部を訪れていた。  用務自体はたいしたものではない。それが終わり、退去しようとした時である。河内は司令部付きのある少佐に呼びとめられた。 「河内作治大佐ですね。お急ぎのところ申し訳ありません。司令官閣下が、内密にお話したいことがあるとのことです」 「私にか?」 「はい。お時間は取らせないとおっしゃっています」  予定にないことで、河内は反射的に不快感を覚える。しかし、それを表に出すことはひかえた。教導航空軍の司令官は中将の階級を持つ。逆らってよい相手ではなかった。  上原というその少佐に導かれ、河内は司令官がいる執務室へ向かった。  河内が入室した時、窓辺に立っていた司令官はちょうど携帯用の薬の小箱から錠剤を取り出している最中だった。河内が見ている前で、彼は白湯の入った湯のみをかたむけ、その錠剤を飲み下す。それから、言い訳をするように言った。 「年は取りたくないものだ。大事な薬を飲むのさえ、うっかり忘れることがある」 「……ご病気ですか」 「時々、胸に痛みがはしる。医者が言うには狭心症だそうだ。痛風(つうふう)持ちと愛煙家は、特に危ないらしい。私の場合は何より、心労が一番まずいと言われているが…」  司令官は湯のみを窓わくに置くと、手持ちぶさたな河内に向かって、 「わざわざ呼び立ててすまないね。まあ、座ってくれ」 と古ぼけたソファをすすめた。河内は浅く腰かける。その対面に司令官も座った。 「河内作治大佐。話というのは他でもない。貴官の身分に関することだ」  司令官はよもやま話を続ける気はないようで、すぐに本題に入った。 「正式な辞令が下るのは来週明けになるが、すでに内定は出ている。河内大佐。貴官を大本営参謀部から、この教導航空軍参謀部へ転出させることが決定した」  河内は相手の言っていることが、とっさに理解できなかった。その反応に、司令官はかつて彼が見せてきた教育者の顔になり、もっと分かりやすい言葉を選んで告げた。 「つまり、来週から私の指揮下に入り、働いてもらうということだ」 「し、しかし…」 「不満かね?」  司令官に目を向けられ、河内は黙り込む。 「まあ、貴官が不審に思うのも当然だな。転出と言えば聞こえはいいが、明らかに格下の部署への移動だ。一種の左遷とみなされても、仕方がないだろう。しかもその司令官たるや、貴官が長年忠誠をささげてきた東條英機元首相の、政敵と言っていい人間ときている」 「…めっそうもありません。高島中将どの」  教導航空軍司令官――高島実巳(たかしまさねみ)中将は数秒、河内を眺め、おもむろに口を開いた。 「貴官を教導航空軍に招いたのは、私だ。河内大佐。貴官だけでなく、大本営報道部の小脇順右少佐もだ」 「―――!」  河内は絶句した。感情が高ぶったことで、高島に対して見せていた偽りの従順さが、瞬間的に霧散する。その下からのぞいた顔は、見るものをたじろがせる憎悪を帯びていた。 「…河内作治大佐」  穏やかな物腰から一転し、高島の声と表情が峻厳な軍人のものに変わる。 「この処遇に関し、不満はあろう。しかし、先に忠告しておくぞ。調布の飛行隊長や貴官の甥である笠倉孝曹長、それから黒木栄也大尉と金本勇曹長に今後一切、関わるのは控えよ。要は――今、貴官らが実行せんとしているはかりごとから手を引け、ということだ」

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