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第13章㉓
それより、さかのぼること二日前――。
河内が腰かけているソファには、調布飛行場の戦隊長と『はなどり隊』の笠倉孝曹長が座り、高島に向かって河内たちの無法な振る舞いを訴えていた。話しているのはもっぱら戦隊長で、笠倉はこれ幸いとばかりにおとなしく控えている。
その話の締めくくりに、戦隊長はこう言った。
「――閣下はかつて飛行学校の校長でいらっしゃった時、憲兵に拘束された朝鮮人の学生を救出するため奔走したと、うかがっています。その学生が金本勇曹長であることを、小官は最近になって知りました。どうかその高邁な精神でもって、河内大佐と小脇少佐の不当な行いをやめさせ、今一度、金本曹長を救うのにお力添えをいただけないでしょうか」
言い終えて戦隊長は頭を下げる。そばに座っていた笠倉もあわてて、戦隊長にならう。
見ていた高島は苦笑いを浮かべ、「二人とも、まずは頭を上げなさい」と言った。
「力添えと言うが…私はつい先ごろまで、中央を遠く離れた僻地 で名ばかりの職を与えられ、無為に碌 を食むばかりの老将だった。今でこそ航空軍司令官などという大層な肩書を得たが、大本営に手をつっこんでかき回せるような権力とは無縁だ。むしろ、そういうものとは、距離を置くよう心がけている」
聞いていた戦隊長たちの顔に失望が広がる。それに気づいた高島は「ああ、すまない」と口の中でつぶやく。
「年は取りたくないな。話が長くなる上、要点が不明瞭になるときている」
「つまり、お力添えはいただけないと……」
「そうではない。いやはや、結論をそう急ぐものじゃないよ」
高島は笑った。
「要は、『押してダメなら引いてみろ』だ」
「は、はあ……」
「私には、大本営の人間をどうこうする力はない。しかし、教導航空軍司令官として必要な幕僚をそろえる権限なら、多少なりとも有している」
「………?」
そこまで聞いても、戦隊長はまだ話が見えない。むしろ、そばで目立たないよう控える笠倉の方が、理解したようだった。
高島はさらに説明した。
「話を聞く限り、この一件で蠢動している中心人物は、河内作治大佐と小脇順右少佐だ。この二人を教導航空軍の幕僚としてぜひ招聘したいと、大本営の総務課に打診してみよう。絶対にうまくいくという保証はできないが、事がうまく運ぶ見込みは高い。両名が私の指揮下に入ってしまえば、あとはいくらでもやりようがある。余計な策略をめぐらさないよう警告した上で、目を光らせていればいい。もし、それを無視するようなら――その時こそは司令官の権限で、処罰を下すことができる」
戦隊長は高島の策にいたく感激した。笠倉も感心する。やはり中将まで出世するくらいの人間は切れ者だなあと、考えようによってはかなり失礼な感想を抱く。
高島は鷹揚に言った。
「善は急げ、というわけではないが。なるべく早く手を回した方がよいだろう。話がほかになければ…」
「あのう…」
その時、それまでほとんど口をきかなかった笠倉が、おずおずと切り出した。
「大叔父たちをこちらに呼び込むついで、というわけでもないんですが。この際、俺を明野教導飛行師団の助教に戻していただけないでしょうか。教導航空軍の下にある部隊ですし、元々、そこでの仕事が本職でしたので…」
高島は穏やかな顔の下で、少々あきれた。
河内が頼りにならないと分かって、笠倉は早くも高島に復職を願い出にきた。ずうずうしいというか、抜け目ないというか。戦隊長よりひと回り若いこの曹長の方が、よほど行動力があり、肝が据わっていた。
高島はふっと口元をゆるめた。
「『逃げの笠倉』は、まだ健在のようだな。笠倉孝曹長」
「え…? あの、なにゆえ閣下が、俺の学生時代のあだ名をご存知で…?」
「君ね。自分が卒業した学校の校長先生の顔と名前くらい、覚えておきなさい」
聞いた笠倉が目を白黒させる。
高島は面白そうにそれを眺め、要領を得ぬ戦隊長に説明してやった。
「笠倉曹長は少飛(少年飛行学校のこと)の出身で、金本曹長のひとつ先輩なんだよ。『逃げの笠倉』というのは、その時についていた彼のあだ名で、教官の間でも使われていたんだ。どうして『逃げ』なんていうとねーー」
「あの、閣下。そのへんで勘弁してください……」
笠倉は平身低頭して懇願する。かつての教え子の頼みを、高島は笑って無視した。
元校長だと気づいてもらえなかったことへの、ささやかな意趣返しだ。
「どうして『逃げ』というとね。ひとつには、面倒ごとをとにかく避けていたからだよ。同期にふっかけられたケンカに始まり、行事で在校生代表としての挨拶に至るまで。やらないために、よくこれだけ豊富な言い訳が出てくるなあと、逆に感心するくらいだった。時には逃げずにやった方が、労力が少なく済んだんじゃないかと思う時さえあったよ」
そしてもうひとつは、と高島はにこにこと暴露する。
「彼が戦闘機班の操縦生徒として、明野飛行学校へうつった後の逸話があってね。戦闘機同士の戦闘訓練で、とにかく逃げ回るのが異様に上手かった。教官ですら、彼から撃墜判定を勝ち得ることは容易じゃなかったそうだ。在学中のちょっと不名誉な無敗記録は、いまだ破られていないはずだよ」
このあたりまでくると、面の皮の厚い笠倉もさすがに恥じ入った様子で身を縮めるばかりだった。
「――だが、卒業後はずいぶん、たくましくなったようだ」
高島は言う。人間は成長するものだし、それを促すのに褒めることは必要不可欠だというのが、彼の信条だった。
「逃げ癖のある人間が困難に立ち向かうのは、そうでない人間より一層難しいだろう。けれども、それをある程度は克服した。それについては君自身、思い当たるところがあるんじゃないか?」
「……ほめていただいていると、受け取っていいんでしょうか」
「もちろん、そのつもりだよ。加えて君みたいな性格の人間の方が、上に立った時、得てして無謀に走らず部下をよく生還させる」
「そういうものですかね?」
「私の経験則だがね。そして、ある人間の職務に対する好悪の感情と、向き不向きの性質は、往々にして合致しないものだ。笠倉曹長。君について言えば、調布から逃げ出して明野に戻りたがっているが、その実、今の現場は君に向いていると私は思うよ――そういうわけで、君の願い出は、残念ながら却下させてもらう。どうしても移りたいというのなら、その時は正式な手続きに則って、戦隊長に転属願いを出すように」
ここまで言われては、どうしようもない。笠倉も引き下がるほかなかった。
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