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第13章㉖
「――外板を外して、何をしているんですか?」
調布飛行場の大格納庫。新しく納入された『飛燕』のかたわらで、中山が千葉にたずねた。黒木の機となる飛燕は先ほど、千葉たち整備兵の手ですべての点検が完了した。不具合はなし。あとは黒木を呼んで試験飛行するのを待つばかりのはずだった。
「縁起かつぎだよ」
飛燕の胴内に上半身をつっこんだまま、千葉が答える。それからまもなく「よしできた」と言って出てきた。
油で汚れた千葉の手には、塗装に使う刷毛が握られていた。一番小さいサイズのもので、筆の先に緑の塗料が付着している。
首をかしげる中山をを手招きし、千葉は飛燕の胴内を指さした。黒木の機付き整備班長は、絵心に恵まれている。ジュラルミンの板の裏に、緑の塗料を使って描かれた生き物の正体に、中山はすぐに気づいた。
「どうしてカエルなんて描いたんです?」
「さっき言った通り、縁起かつぎだ」
「…?」
「戻ってくる、『帰る』と音が同じだろう」
「ああ、なるほど」
中山はようやく得心がいった。
「黒木大尉どのには内緒にしておいてくれ。言ったら『余計なことをするな』と叱られそうだから」
千葉はやつれた顔に、かすかに笑みを浮かべる。ここ一ヶ月、整備兵たちの食糧事情は悪化の一途をたどっている。飯の量からして、去年と比べると数割減っていて、千葉や中山たちはほぼ毎日、空きっ腹に悩まされている状態だ。黒木から流れてきた野菜やら干し柿やらは、その意味でありがたかったが、それも分けてしまえば大した足しにはならない。
それでもB29が来るたびに出撃し、命がけで戦っている搭乗員たちのことを思えば、文句や不平を口に出す気にはなれかった。
千葉は外しておいた外板を戻しにかかった。中山が手を貸す。
中山は板をはめる前にもう一度、デフォルメされて描かれたカエルに目をやる。
そして不意に、
「…そのカエル。金本曹長どのの機にも描いてもらえませんか?」と千葉に言ってきた。
千葉は中山を見返した。なにかを探るように、童顔で小柄な男の顔を眺める。
金本勇と彼の乗る『飛燕』が傷を負って戻って来た時、中山はひどく動転していた。その時は落ち着かせるのに気を取られていて、千葉は気に留めていなかったが、今から思うと少し度が過ぎていたように思える。
さらに思い返してみると、中山は金本が入院したあとも、機会さえあれば外出許可を得て、会いに行っていた。金本の機付きの整備班長だから、別におかしくないと言えばおかしくないのだが……。
「…お前、金本曹長のこと――」
言いかけて、千葉は途中でやめた。
「いや、なんでもない。それより。俺が描くより、自分で描いたらどうだ?」
「え? でも自分は、あまり絵は…」
「こういうのは上手いか下手かより、どれだけ気持ちがこもっているかの方が大事だと思う。金本曹長のこと、大切に思っているんだろう」
千葉が笑いかけると、中山はさっと視線をそらした。その口の端がもどかしげに動く。
だが結局、言葉にせぬまま童顔の整備兵は黙り込んだ。
――…気の毒に。
自分の予想が的中したと知って、千葉は心の中で同情した。
――黒木さんと金本さんは、どうやらうまくいっているようだから。中山の気持ちが報われることはないだろうな…。
そんなことをつらつら考えている内に、作業は終わった。
千葉は数歩、下がって銀色に輝く機体を眺める。
そして、人を相手にするように心の中で語りかけた。
――今日からお前さんは、『はなどり隊』の隊長機だ。おそらく、大変な目にばかり合うだろう。でも俺が直してやる。だからどうか――お前が乗せる人の命を、守り抜いてくれ。
千葉は中山の方を振り返った。
「コツだけ教えてやる」
「え?」
「カエルのうまい描き方。だから、自分で描けよ」
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