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第13章㉗
戦隊が浜松へ出発する日、帝都上空はあいにくの曇天であった。
それでも、いつ空襲警報が鳴り出すか分からない中、未明から出立に向けて準備は進められていった。金本たち搭乗員は自らの機体で新たな駐屯地まで直接、飛んでいく。一方、地上勤務者である整備兵たちは順次、列車で移動する手はずとなっていた。
午前十時、下着や日用品をつめ込んだ袋を手に、金本は自分の『飛燕』へ向かった。戦隊に帰属する三つの飛行隊の内、『はなどり隊』は最初に離陸する予定だった。すでに格納庫と各所の掩体壕から、飛燕が続々と姿を現しはじめている。発動機が回され、飛行場には液冷エンジン特有の音が鳴り轟いていた。
金本の気分は悪くなかった。昨日の昼、またB29の編隊が名古屋の工場地帯を狙って来襲し、黒木率いる『はなどり隊』も調布から出撃した。当然のように金本も従ったが、十日以上実戦から離れていたので、内心では幾分、緊張していた。
しかし離陸してしまえば、あとはもういつも通りだった。
中山たちの手で修復された飛燕は、空の上で金本の思い描く通りの動きをしてくれた。また今回は地上からの高射砲にも助けられた。迎撃のために撃ち出された猛烈な数の弾丸の内、何発かがB29をかすめて損傷を与えたのだ。付近を飛んでいた金本たちはこの好機を逃さず、高度を落とした「かもくじら 」めがけて、次々と群がった。
その結果、B29の編隊が海上へ逃れる前に、二機を撃墜することに成功した。ささやかではあるが確かな戦果である。未帰還機もなく、夕方までに『はなどり隊』の全機が調布へ無事帰投した。
その夜、『はなどり隊』のピストでは昼間の出撃の疲労で全員が早々と眠りについていた。金本も寝ていたが、真夜中すぎに肩をたたかれ起こされた。目を開けると、暗がりに黒木が立っていた。黒木はかがみこんで、「ついてこい」と金本の耳元で告げる。音を立てて誰かを起こさぬよう注意を払いながら、金本は黒木と外に出た。
黒木を抱きたい気持ちはあった。だが、翌日のために体力を残しておくべきと考え、金本は差し控える。そのかわり、物陰で身体を寄せ合って口づけを交わした。少々、物足りなくはあったが、黒木の柔らかい唇や舌をねぶり、吐息やか細い声を聴くのは心地よかった。
…接吻がひと段落したあとで、黒木が金本にささやいた。
「今日が何の日か知っているか?」
「いや」
「俺たちにとって特別に重要な日だよ」
「…あ。分かった」
「本当かよ」
「確か、代々木の練兵場でアンリ・ファルマン式飛行機が飛んだ日だろ。日本で初めて飛行機が飛んだ日」
「………」
伸びてきた黒木の手に、金本は耳をねじられた。さすがに力加減はしてもらえたが、それでもけっこう痛かった。
どうやら言ってほしかった答えと違ったらしい――金本がそう思っていると、黒木がむっつりした声で告げた。
「俺の誕生日だよ。どうせ知らなかったんだろう」
「初めて聞いたぞ」
金本は痛む耳を押さえてうなった。
「何も用意していない。せめて事前に教えてくれれば、よかったのに…」
「うるさい」
乱暴に頭を掴まれ、そのまま金本は口を黒木の唇でふさがれた。
濃密なキスはたっぷり一分ほど続いた。
「…今年はこれで勘弁してやる」
唇を離して黒木が言った。
「そのかわり、来年はきっちり祝えよ。約束だからな」
言外にこめられた意味を、金本はすぐに悟る。
少なくとも来年までは生きていろ、ということだ。
それは容易なことではなかった。明日の命さえ保証がない日々を、金本も黒木も生きている。確かな約束など、本当はできるはずもなかった。それでも――。
「――分かった。忘れない」
黒木が望むであろう答えを、金本は返した。
金本もまた、黒木が生き延びてまた年を重ねることを願ってやまなかったからだ。
二人とも心の底では理解している。この戦況が好転しないかぎり、かなわない可能性の方が高いと――。
そう知りながらも、実現すればいいと、切実に願った。
……翼の上で、整備兵の中山が飛燕のエンジンの爆音に負けないよう声を張り上げる。
「――お気をつけて。またすぐに、浜松でお会いしましょう」
「ああ。そちらも道中、気をつけて行けよ」
操縦席から金本が言うと、中山は嬉しそうにうなずいて、翼の上から地上へ降りた。
中山たちと別れ、金本は滑走路へ機体を向かわせる。『はなどり隊』の面々を追って、金本の飛燕は離陸した。
地上で見送る中山の目にジュラルミンの燕が映る。それはすぐに雲の中に溶け込んで、見えなくなっていった。
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