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第14章⑥

 同時刻、巣鴨プリズンで発生した殺傷事件は、対敵諜報部隊(CIC)所属のセルゲイ・ソコワスキー少佐の耳にはいまだ入っていない。  というのも半白髪の少佐はこの時、東京から九百キロも離れた九州南部にいたからである。  ソコワスキーはある逮捕劇を遂行するために、テッド・アカマツ少尉ら数名の部下を引き連れて、この場所にやって来た。数ヶ月にわたりマークしてきた、過激派組織「尽忠報国隊」。そのリーダーである田宮正一と彼の下につどった賛同者たちを、根こそぎ捕えるのが目的だった。  田宮の動向はこれまで彼の妻、田宮千代を通じて、逐一ソコワスキーのもとへ届けられてきた。彼女から来た最後の報告はこうだ。 ――田宮らはいよいよ、エンペラー(天皇)を誘拐する決意を固め、八月七日から十日の内に岩手県K農場内で実行に移す由――。  そして計画の成功祈願も兼ねて、八月三日に彼らは田宮の屋敷に集まって宴会を開く予定である、と。  情報を得たソコワスキーが決断をくだすまで、さして時間はかからなかった。  その日こそ、田宮たちがエンペラー(天皇)誘拐を実行に移す前に、一斉に捕縛するチャンスだ。ソコワスキーは、参謀第二部(G2)のW将軍の許可を得たうえで、自ら逮捕作戦の舵取りのために列車で九州へ向かった。  東京から目的地までは、二日がかりの旅である。幸い連合国軍関係者が乗る東京発の寝台車に空きがあり、全員分の寝床は確保できた。しかし列車の旅には騒音と揺れが付きものである。この一ヶ月、一日の平均睡眠時間が五時間を切っていたソコワスキーは、この機会を逃さず眠ろうとした。しかし午前一時頃、不意に目をさましてしまった。何とか眠ろうとするが、気が高ぶっているせいか、なかなか眠れない。  ヒツジの数を数えて、無駄な努力をすること三十分。  九百八十七匹目を数えたところで、ソコワスキーは諦めて、寝台に吊られているカーテンを開けた。  歩き回って気分を入れかえれば、少しはマシになるかもしれない。半白髪の少佐はそう思って、靴をひっかけて通路へ出た。  そこで初めて、先客がいることに気づいた。  肝っ玉は小さいくせに、図体だけはやたら大きい男。  今回の旅に同行する部下のひとり、ジョン・ヤコブソン軍曹だった。 「…なんで起きてるんだ」  自分のことを棚に上げて、ソコワスキーは言った。  上官の突然の登場に、ヤコブソンは驚く。カーテンがこすれる音で誰かが起きたのは察知したが、それがソコワスキーだとは思わなかったのだ。  しばしのあいだ、二人の間に微妙な空気が流れた。  常夜灯だけ灯った薄暗さの中で、ヤコブソンはソコワスキーを見つめたまま動かない。無言で青い目をしばたかせる相手に、ソコワスキーはイライラした。  向こうは寝る気なし。それはこちらも同じだ。  仕方なく、ソコワスキーは部下の大男の方へ歩いて行った。面倒だが、いくつかの理由でヤコブソンを無視することだけはできなかった。  ソコワスキーは列車の壁に背中をあずけ、ポケットからつぶれた煙草の箱を出す。 「一本だけ喫ったら俺は寝る。話したいことがあるなら、その間に済ませろ」  ヤコブソンは反応に窮した。そんなことを言われても、急に適当な話題など思いつくはずもない。  睡眠不足で不機嫌そうな男を、ヤコブソンはそっと見やる。話したいことは、伝えたいことは、本当は山のようにある。けれども、どれもこれも口に出せるものではない。一度、それをして、ソコワスキーとの間にマリアナ海溝より深いみぞができたことを、ヤコブソンは忘れてはいなかった。  そんなことを考えている間、壁にすえつけられた灰皿の向こうでは、半白髪の少佐がずっと火をつける道具を求めて、ポケットをイライラとひっくり返していた。 「あの…」 「あ?」 「ジッポーなら、持ってますけど」 「……貸せ」  部下から差し出されたライターでソコワスキーは火をつけた。用が済むと、ヤコブソンに借りたものを突き返す。だが暗いせいで、向こうが受け取り損ねた。  落ちたライターは床ではねかえって、ソコワスキーの方に転がって来た。 「ちっ。何してるんだ…」  煙草をくわえたまま、ソコワスキーはかがみこんだ。幸い、止まった場所が常夜灯の真下だったのですぐに拾うことができた。  再びライターを手に取った時、ソコワスキーは真鍮のケースの表面に文字が刻まれていることに気づいた。  ――from E to J(EからJへ)――  Jがヤコブソンのファーストネームである「ジョン(Jhon)」のイニシャルであることは、すぐに見当がついた。  ではEは?――贈った人間のイニシャルであろうが…。 「……」   誰がヤコブソンにライターを贈ったのか、ほんの少しだけ気にはなった。だが、ソコワスキーは何も言わず、ライターを持ち主に返した。  ヤコブソンは礼を言って受け取った。 「長旅で、おつかれじゃないですか」 「そんなことはない」   ソコワスキーは言って、不機嫌そうに煙を吐く。  青灰色の目で射すくめられたヤコブソンは、軽くたじろいだ。内心でうめく。 ――神さま。見たものを忘れない目なんかより、この(ひと)を喜ばせられる舌が、俺は欲しかったです。 「いえ。今回の件。わざわざ少佐が出向かなくても、日本の警察を通じて田宮たちを逮捕させれば済んだんじゃないかと……」  言葉を重ねるほどに、ヤコブソンの声は小さくなっていった。

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