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第14章⑦
――やっぱり退散しよう。
ヤコブソンがそれを実行しかけた時、灰皿の向こうから声がした。
「――以前。舞鶴にいた時、今回のように女を間諜として使ったことがあった」
ソコワスキーはくわえていたタバコを離して、話し始めた。
「彼女は密売人の情婦だった。売人を逮捕する時に女を保護するように日本の警察に伝えていたんだが、その約束は守られなかった。彼女は部屋着のまま、踏み込んできた警察官たちに男もろとも連行され、留置所に放り込まれた。俺がそこに行った時、女は警官から受けた暴力で身体中を腫らして、寒さで肺炎になりかけていた」
ソコワスキーがすぐに入院させたので、女は大事には至らなかった。
しかし、ソコワスキーは今でも留置所で目にした女の姿が忘れられない。
靴をはくことさえ許されなかった女は床に素足でうずくまり、ボロボロの筵を身体に巻きつけ、必死で寒さをしのいでいた。化粧の残滓がこびりついた顔に無残な青痣をつくり、涙の痕の残る虚ろな両目で、彼女はやって来たソコワスキーを見上げた。
その時、ソコワスキーが思い出したのは、母のことだった。人種も年齢も体つきもまるで違っていたにも関わらず、女は死ぬ直前の母親とあまりに似かよって見えた――。
…当初の取り決めをみずから反古にし、ソコワスキーは二本目のタバコに火をつけた。
「どこの国も似たり寄ったりだが、この国 でも、女と子どもの社会的な地位はないに等しい。警察はまともに保護しようとしない。田宮千代は情報提供者であり、貴重な証人だ。田宮たちを逮捕する前に、身柄を確実に確保する必要がある。そのためには直接、こちらが動くのがいちばんいいと考えたまでだ」
言い終えたソコワスキーは紫煙を吐く。そこに部下の声が降って来た。
「前から感じていたんですが」
「何だ?」
「少佐は、女性には優しいですよね」
「おい、コラ。人を女好きみたいに言うな」
「でも本当に優しいですよ」
聞いたソコワスキーは、まだ半分以上残っていたタバコを、灰皿に乱暴にこすりつけた。
「全く、そんなことはない」
女は謎だ。その本質をソコワスキーは理解できたためしがないし、もっとも肝心な時にちゃんと対処できたためしがない。
それができていれば、ソコワスキーの母親は薬物におぼれて、死ぬことはなかっただろう。
さらに、もう一人。あの娘も――。
「――Eって、誰だ?」
自分の人生に関わって不幸な結末を迎えた女性たちのことを、ソコワスキーはそれ以上考えたくなかった。だから自分から話題を変えた。
ヤコブソンは最初、何のことを言われているか分からず、とまどった。
「ライターに刻印してあった ”from E” のEだよ」
ソコワスキーのイライラとした指摘でやっと思い当たった。
「あー……俺にジッポーを贈ってくれた親友のイニシャルです」
「出征の記念か」
「そうです」
「名前は?」
その質問の答えは、すぐには返って来なかった。
ソコワスキーが不審に思った時、ようやく、
「エリー。エリー・マクスウェルが彼女の名前です」
「……エリー? 親友って、女か?」
「はい。俺が入隊しようとしていた頃、南部の田舎では新品のライターなんて、めったになくて。エリーがわざわざ、父親のお古を磨いて、くれたんです」
「彼女いくつだ?」
「俺と同い年です」
「それで親友と……」
すでに十分すぎるくらい、私的なところに深入りしている。
それでも、ソコワスキーは口に出さずにいられなかった。
「そのエリーって娘。絶対にお前に気があるだろう。気づいていないのか?」
そうするつもりはなかったのに、つい詰問するような口調になってしまった。
「…知っています」
数秒の沈黙の後、ヤコブソンはざらついた声で言った。
「そしてエリーも、俺がどういう男かちゃんと理解している。故郷で、そのことを知っているのは彼女だけです。エリーは、本当に強くて素晴らしい娘なんです。でも――」
その時、列車がカーブを曲がるために、大きな軋みを上げた。その音のせいで、続く言葉はソコワスキーの耳まで届かなかった。
暗闇の中で、大男がのっそり動いた。
「……もう寝ます。先に失礼します」
ヤコブソンはソコワスキーと目を合わせることなく、自分の寝台へ去っていった。
その姿が消えた後、ひとり残された形のソコワスキーは壁に後頭部を打ち付けた。
「…何なんだよ。本当に」
好いてくれている女がいる。なら、とっとと帰国して、彼女と結婚してやればいい。至極、単純なことではないか。それとも、結婚したくないからこそ、こんな極東の国にとどまって、さして向いているとも思えない軍務を、だらだら続けているのか――。
分からない。けれども、ヤコブソンに本心をたずねることは、ソコワスキーでも躊躇があった。
もしも、ヤコブソンが絶対に実現しえない恋に未練を抱き続けているというのなら――ソコワスキーの存在が、ここにとどまっている理由だというのなら、あの大男とどう向き合ったものか、いよいよ分からなくなりそうだった。
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