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第14章⑩

 目的地のはるか手前から、オレンジ色に染まった夜空と、そして星々を覆い隠す黒煙が認められた。そして距離が近づくにつれて、いやおうなく鼻につく煙の臭いが濃くなってきた。  ソコワスキーたちが到着した時、田宮の屋敷はほとんど炎に飲み込まれ、崩れ落ちようとしていた。近所の青年団に属す男たちが、必死で消火作業を行っている。だが、周囲への延焼を食い止めるだけで手いっぱいなようだ。  同行した日本人の警官たちの制止を振り切り、ソコワスキーは人の群れをかきわけて進んだ。 「危ないですから、これ以上は近づかないでください…!」  上官の身の安全を慮って、アカマツが警告する。ソコワスキーはそれも無視し、屋敷を囲む垣根へ近づいていく。ヤコブソンが後ろから追いかけ、仕方なくアカマツたちも後に続いた。  ソコワスキーは集まる老若男女の中に、白黒写真で確認した田宮の姿を求めた。だが、それらしい男は見当たらない。顔すら知らない田宮千代に至っては、探しようもなかった。  ソコワスキーはアカマツの口を借りて、野次馬たちに田宮夫妻の安否をたずねさせた。しかし、二三人に聞いても、返事は「分からない」か「知らない」ばかりだ。  アカマツが、新たに野次馬をつかまえようとした時である。ソコワスキーの青灰色の目が、地面にへたりこみ、炎を呆然と見つめる老人をとらえた。  直感が働いたソコワスキーは、アカマツを連れて老人のもとへ駆け寄った。 「屋敷の人間か?」  老人の肩がびくりと上下する。周りを見わたし、アメリカ陸軍の軍服を着た男たちに囲まれていると気づいて、さらに驚きで目をみはった。 「答えろ。田宮の屋敷の人間か?」 「へ、へえ。さようでございます」 「田宮正一はどこだ? それに、妻の千代は?」  その問いに、老人が一瞬呼吸を止める。それから、不自然なくらいにまばたきをし、視線をさまよわせた。  その反応を、ソコワスキーは見逃さなかった。クリアウォーターには及ばないが、尋問の経験は決して乏しくはない。老人の挙動は明らかに、嘘をついたか、これからつこうとしている人間のものだった。 「――知りません。もう、どこかに避難したんじゃないでしょうか…」  アカマツが翻訳し終えるより前に、ソコワスキーは行動に出た。一歩、進み出ると、老人のまばらになった髪を乱暴にわしづかみにして、引きずり上げたのである。  不意をつかれた相手は、たまらず悲鳴を上げた。  その光景にアカマツやヤコブソンは息を飲む。だが、制止する者は誰ひとりいなかった。  これが、セルゲイ・ソコワスキーのやり方だった。女子どもには優しいが、成人した男には必要とあれば暴力を用いることを辞さない。その相手が年寄りであっても、ためらう理由にはならなかった。  痛みでうめき、目じりに涙をためる老人に向かって、ソコワスキーは告げる。 「もう一度、聞く。田宮とその妻はどこだ?」  炎に照らされた青灰色の瞳は、凍てついたツンドラの湖に似ていた。冷たく、底には得体の知れない怪物がひそんでいる。真夏で、すぐそばで大火が燃えさかっているにもかかわらず、老人は冷たい汗を流して震えあがった。恐怖が、彼に真実を――少なくとも真実により近づいた言葉を紡がせた。 「だ、旦那さまは逃げたのではないかと…。奥様はその…井戸にいると思います」  ソコワスキーは田宮の屋敷の見取り図を思い浮かべた。確かに、屋敷の母屋と土蔵の間、裏手の藪の手前に井戸があった。 ――しかし、井戸にいるとは………?  次の瞬間、ソコワスキーは老人が言わんとしていることを理解した。 「――ヤコブソン。お前はこの男をここで見張っていろ」  そのまま老人を解放すると、あとは目もくれず、ソコワスキーは駆けだした。アカマツたちがあわてて上官に続き、垣根を回り込む。幸い、井戸のある方は風上なので、炎や煙にまかれる心配はなかった。  走るソコワスキーは、これから目にするものを予感して、覚悟を固めた。  田宮正一は逃げた。しかし、妻の千代は井戸にいる――。  見張りを理由に、ヤコブソンをとっさにあの場に残したのは、ソコワスキーとしては上出来に入る部類の気遣いだった。  これ以上、陰惨な光景をあの青年の記憶(メモリー)に加える必要は、どこにもなかった。  藪を抜け、ソコワスキーは井戸へたどりつく。竹製の覆いが、無造作に湿った土の上に打ち捨てられていた。アカマツが持参してきた懐中電灯をつけ、ソコワスキーは石の囲いから中をのぞき見た。  探すまでもなかった。七、八メートルほど先にある水面が、懐中電灯の光を反射する。  その黒い水面に、格子模様の着物が漂っていた。

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