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第14章⑪

 ……さかのぼること数時間前。  田宮千代は屋敷の自分の部屋で、一心不乱に手紙をしたためていた。客間では夫の田宮正一と来訪客との話がまだ続いている。客が帰り、夫がこの部屋へやって来る前に何とか手紙を書き終えねばならない。千代ははやる心をおさえてペンを走らせ続けた。  三十分ほど前に客を玄関で迎え入れた時、千代は思わず彼を追い返したくなった。  相手は田宮が結成した「尽忠報国隊」のメンバーの一人であり、先日、千代が町の郵便局で遭遇した口のきけない青年だった。千代は彼の姿を見て落胆した。田宮と関わるなという彼女の忠告は、残念ながら耳に入っても心に届かなかったらしい。  青年は千代に目礼すると、すぐに田宮とともに客間にこもった。  二人の客が消えた後、千代はいつものように忍び足でふすまの前までやって来て聞き耳を立てた。最初は、それほど期待していなかった。元航空兵の青年は、首に負った戦傷のせいで声が出せない。おのずと対話の半分は筆談になる。案の定、話がはじまると、聞こえてくるのは夫のだみ声ばかりになった。  それでも、田宮が彼と二人きりで語り合うのは珍しい。何を話すのか、半分は好奇心から千代は息を潜ませて、そこにとどまり続けた。  そして思いがけず、今までつかむことができなかった情報を――田宮や青年たちが、どのような手段で厳重に警護されているエンペラー(天皇)を誘拐するつもりであるかを、知ることになった。  聞き耳を立てる千代の頬は、興奮で淡く色づいた。普段なら客が帰り、田宮が外へ出かけて不在となる機会に、対敵諜報部隊(CIC)に宛てて手紙を書く。しかし、明日は朝から宴の準備で忙しい。また今日、田宮が必ず出かけるという保証もなかった。  耳に入れた話を、一刻も早く対敵諜報部隊(CIC)へ知らせたい。手紙を書くなら、田宮がまだ客と話し込んでいる今しかない――決意した千代は急いでその場を離れて、自室へと引き返した。  ……手紙をしたためることに、千代はあまりに集中しすぎていた。そのせいで、彼女のいる部屋へ人が近づいてくる気配に気づくことができなかった。  千代の背後で、いきなりふすまがバンと乱暴に開かれた。  その音に、千代は思わず書きかけの便箋を握りつぶした。振り返ると、夫が薄ら笑いを浮かべて立っていた。千代は背筋が凍った。 「熱心に何を書いている?」 「なんでもありません……母への手紙を…」 「見せてみろ」  田宮が部屋へ入ってくる。千代は息をのみ、便箋を両手で握りしめる。  その仕草を見た田宮の顔から笑いが消えた。 「見せろ、この石女(うまずめ)!」 「いやです。イヤ……!!」  田宮が抵抗する妻の肩を、砕かんばかりの力でつかむ。千代は手にある手紙をどうにか消し去れないか、せめて字が読めないようにできないか、虚しく周りを見わたす。しかし、水も火もない。破っても、捨てられなければ意味がない。千代は手紙を丸めて、必死で着物のたもとに投げ入れた。時間稼ぎにもならない無意味な抵抗だった。  覆いかぶさって来た田宮は千代を組み伏せ、腕をねじり上げると、悲鳴を上げる彼女の身体から力づくで丸めた便箋を奪い取った。  勝ち誇った顔を近づけ、田宮は妻に告げた。 「やっぱり。あの男だったんだな」 「……なにを言っているんです?」 「しらばくれるな! 色狂いのあばずれが。信吾のやつが全部見ていたんだ」  屋敷に長くつとめている老人の名を、田宮は口にした。 「客が来るたびに、お前が廊下でのぞき見をしていると。その姿ときたらまるで、女郎屋の女が客の男を品定めしているようだとな。ふん! あんな口もきけん、面白みもない男が好みだったか」  どうにも、千代が浮気しようとしていると、田宮は思い込んでいるようだった。  見当違いもはなはだしい。こんな状況でなければ、相手が夫でなければ、千代は笑い飛ばして否定しただろう。しかし無論、今の状況で、そんなことができるはずもなく、千代はただ呆気に取られて黙り込んだ。  田宮は鼻息も荒く、丸められた手紙を広げる。動かしがたい不貞の証拠を読み上げて、妻をいたぶる気でいた。記された字を目で追う田宮を、千代はただ首をよじって見つめることしかできない。  田宮の得意気な顔に、しばらくすると不審が混じった。それからまもなく、男はブルブルと震え出した。その変化を眺めるうちに、千代の中の恐れが薄れ、別の感情が取って代わった。  それは復讐の快感だった。 「なんだこれは…?」田宮があえぐ。 「あら。読んでも分からない? 密告の手紙よ」  苦痛をこらえ、千代は口元をゆがめた。 「全部、筒抜けになっていたのよ。あなたとあなたの集めた大層なお仲間たちが企んでいたことは、一から十までわたしがお(かみ)に――GHQに知らせてやったから。お笑いぐさね。きっとアメさんたちも、せせら笑っているでしょう。天皇陛下を誘拐しようだなんて、絶対にうまくいくはずがない。しかも、あんな無茶苦茶な方法で……――」  語尾に、田宮が思いきり頬を張る音が重なった。焼けつくような痛みがはじけ、血の鉄くさい味が千代の口の中に広がる。むろん、それで終わるわけがなかった。

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