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第14章⑫

 激昂した田宮はわめきちらしながら、千代を殴り、蹴りつけた。叫び声を上げ、千代は夫の暴力から逃れようとする。その妻の背中を田宮は踏みつけ、再び覆いかぶさった。  千代は必死で頭や顔を守った。田宮はところかまわず拳を打ちつけ、足のつま先を食い込ませてくる。髪をつかまれ、額を柱にたたきつけられた時、千代はこのまま夫に殺されるのではないかと思った。身体から力が抜け、頭を失ったヘビのようにずるずると床に落ちる。  耳鳴りがする。痛みがあまりにひどすぎて、田宮の暴力がやんだことにさえ、千代はしばらく気づかなかった。  目をあけると、ぼやけた視界の中で、夫が誰かに後ろから羽交い絞めにされていた。  田宮を止めたのは、来訪客の青年だった。声を出せない男は、身振りでやめろと伝えているようだ。青年に向かって、田宮が真っ赤な顔で怒鳴る声が、耳鳴りのあいまに聞こえてくる。  千代の裏切りを知った青年の顔が、みるみる強張る。彼は、まだ田宮を引きとめてくれている。だが、千代に向けた両眼には、一片の温もりも見当たらなかった。 ――…やめて。そんな目で見ないで。  千代は泣きたくなった。青年を失望させたことが、これほど身に応えるとは思ってもみなかった。後悔と絶望がないまぜになって、のどの奥から押し寄せてくる。  千代は失神する寸前、なぜか特攻兵として出撃を待っていた時の青年の姿を思い出した。    …田宮が落ち着きを取り戻し、少なくとも話ができるようになるまで、なお時間が必要であった。青年はその間、使用人の誰かがやって来るのをずっと待っていた。わなに落ちたイノシシのように暴れる田宮を、ひとりで拘束し続けるのは正直、骨が折れる。けれど、待てど暮らせど結局、誰も来なかった。屋敷の中は不自然なほどに静まり返っている。どうにも、家の者は主人の怒りを恐れてひたすら息をひそめ、嵐が去るのを待っているらしかった。  田宮を放した青年は、くしゃくしゃになった便箋を拾い上げた。千代が綴った女らしい柔らかな字が並んでいた。 ――エンペラー(天皇)誘拐の方法について、田宮が話していたことを急ぎ、お伝え申し上げます…―――  読み進めるうちに、青年は気づいた。どうも千代は先刻になってはじめて、田宮たちがどうやって、天皇を誘拐しようとしているかを知ったらしい。  裏を返せば――その情報はまだ、GHQのもとには伝わっていないということだ。  青年は落ちていた万年筆と未使用の便箋を拾い上げ、自分の考えを記し、さらに次のように書き足した。 ――のことは、GHQにはまだバレていないと思います。ならば、身を急いで隠して、決行の日にあそこで落ち合えばいい。ほかの人たちにも、そう伝えましょう――  読み終えた田宮は、疑り深い目を青年に向けた。 「本当に大丈夫なのか?」  田宮は迷っているようだ。情報が外部にもれていたと分かった今、計画を中止にすべきではないかと思っている。  別に青年はそれで、かまわなかった。彼と――そして彼のの計画において、すでに田宮を含む尽忠報国隊の存在は不要だ。  (カネ)と機材燃料の調達。ただそのために、田宮たちは必要だったに過ぎない。  とはいえ、厄介な問題はあるにはある。尽忠報国隊の口から天皇誘拐の手段がもれると、それは即、青年たちの計画にも支障をきたすことになる。 ――やめたいのなら、やめてもいい。でも、俺は続けます――  青年は一瞬、ためらってから続きを書く。 ――金本さんたちも続けると言うはずだ。ただ、計画が事前にバレるのだけは避けたい。やめるとしても、少なくとも実行の日までは身を隠してください――  便箋をかかげた青年は、ちらりと千代に目をやった。髪が乱れ、着物がはだけた状態で横たわったままだ。どうも、気を失っているらしい。その哀れな姿を前に、青年は先ほど千代に抱いた憤りが、急速にしぼむのを感じた。彼女はただ、暴力をふるう夫から逃げ出したい一心で、このような行いに手を染めたのだろう。  青年はそこでようやく、千代をこのまま放置しておけぬことに思い至った。 ――彼女は? どうすればいい…?  答えを出すより先に、田宮の唸るような声が上がった。 「――分かった。そこまで決心が固いのなら、急いで身を隠そう。他の者には、俺から事情を話す。それと…」  田宮はぼろきれのように横たわる妻に鼻を鳴らす。 「千代のことは、こちらにまかせてもらいたい。不始末をしたとはいえ、一応妻だからな」  そう言うと、田宮は青年を部屋から追い出し、玄関まで見送った。  その間、青年が使用人の姿を見ることはついになかった。

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