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第14章⑮

 田宮の言わんとしていることを悟り、千代は恐怖で総毛立った。  逃げようとする彼女の身体を田宮は引きずり、まるで土嚢か何かのように持ち上げた。  その間、千代はずっと手足をばたつかせ、叫び続けた。しかし田宮の腕はびくともしない。また猿ぐつわのせいで、悲鳴は口の中でくぐもるばかりで、遠くに届きそうもなかった。  田宮は暴れる千代の身体を井戸の縁の上におさえつけ、中をのぞきこませた。 「前の奴は泳ぎの心得があった。けれども、水が冷たかったんだろうな。一時間もせずに力尽きた」  捕まえた獲物をいたぶる肉食獣のように、田宮は舌なめずりする。千代が味わっている恐怖をさらに煽るためだけに語り続ける。 「最初は、あいつも助けを求めて叫んでいた。だが外に聞こえないと分かると、俺に向かって許してくれ、命だけは助けてくれと懇願し続けた。もちろん、俺は聞き入れやしなかった。そのかわりに、あいつが水に沈むまで、全部見届けてやった……お前はどうだろうな? 何分もつかな? まあ落とす前に手の縄は切って、口の布も外してやるから、せいぜい粘ってみろ」  そう言って、田宮は帯の間から裁縫で使うごつい布ばさみを取り出した。 「死んだ後のことは心配するな。お前が後生大事にしていたものは、すぐにでも質屋に持って行って高い値段で売り飛ばしてやる――」  言いながら田宮は、千代の口にかませている布を後ろからはさみで切り離した。 「……! やめて! いや! 助けて!!」  千代は思いきり叫んだ。しかし、声はむなしく井戸の中を反響するだけだ。  悲鳴を聞きながら、田宮は千代の両手の間に刃を入れた。縛めを切ると同時に両足をすくい上げて、千代を水底へ落とすつもりだった。  その瞬間、猛烈な勢いで走って来た人影が、田宮に飛びついて、こぶし大ほどの石をその頭にたたきつけた。  予測していなかった襲撃に、田宮はよろめいてはさみを取り落とす。だが田宮という重しがなくなった千代の方も、大きくバランスを崩した。  井戸へ転落しかける寸前、横から伸びた腕が千代の身体をすくい上げる。千代とその救助者はそのまま、もつれるように地面の上へと倒れこんだ。  千代の下敷きになった青年が、もししゃべれたとしたら、悪態のひとつかふたつついただろう。何がどうなっているのか。千代か、あるいは田宮から、説明がほしかった。  いや。実際のところ、言われずとも推測できた。  青年がためらい、やらずに済ませようとしたことを、田宮はさして悩むこともなく実行にうつしたのだ。放置もできず、かといって逃亡のお荷物となる千代を、出発前に屋敷の井戸の中に葬り去ろうとしたのである。  もし青年の到着があと十分遅ければ、千代は文字通り地上から消えていただろう。  あるいは田宮の行為をただ物陰から黙って見ていれば、同じ結果が得られたはずだ。今後の計画のことを考えれば、千代にはここでいなくなってもらう方が、確実にいい……。  だが、女が井戸に落とされようとしているのを目にした瞬間、青年の頭からは、あらゆる打算が消し飛んでしまった。  青年は千代の身体をどかし、立ち上がろうとした。その矢先、先に体勢を整えた田宮に胸ぐらをつかまれ、したたかに顔を殴られた。  田宮は頭から血が流れるのにも気づかぬ様子で、ほえるように言った。 「――やっぱり貴様、千代とつるんでいやがったか! この間男が…!」  田宮の的外れな推測は、病的な嫉妬心によるものだ。暴力を振るわれ、言いがかりをつけられた青年は腹をたてた。抗弁したいところだが、あいにく口がきけない。もっとも話せたところで、逆上した田宮が聞く耳を持つかは、あやしいところだった。  それよりも、自分の身を救う方が先だった。殴られた時、青年はとっさに井戸の縁をつかんで転落を防いだ。そこに迫って来た田宮は、渾身の力を込めて彼を囲いの向こうへ押し出そうとしてくる。青年は抵抗したが、年の割に田宮は力が強い。  このままではまずい――青年はあせり出した。  その時、田宮の後ろから這うようににじり寄る女の姿を、目の端でとらえた。千代だった。縛られた両手に、田宮が落とした裁縫ばさみを持っている。  激昂する田宮の背後で、千代はハサミの両刃を開き、そっと夫の右足をはさむ。  そして田宮が気づくより先に、両手の親指に力をこめて思いきりそれを閉じた。  右足のアキレス腱を傷つけられた田宮は、犬の遠吠えのような叫びを上げた。  そのスキに、青年は田宮の下から急いで這い出た。田宮はわめきながら振り返り、これ以上ないくらい憎しみのこもった目を、千代と青年へ向ける。  諦めの悪い男はいま一度、攻勢に出ようと、傷ついた右足を地面につけた。途端に耐えがたい痛みがはじけ、田宮はウサギのように飛び上がった。そのひょうしに、男の腰と尻が井戸の縁を越えた。  一瞬、田宮はバランスを取ろうと腕を振り回したが、無駄であった。  千代と青年の目の前で、田宮の上半身が、さらにさかさまになった両足が、吸い込まれるように井戸の中へ消えた。  くぐもった叫びに一度だけ、何かが砕けるにぶい音が混じる。落ちる途中、崩落防止のために内部で積まれた石に頭をぶつけたのだ。最後に、水しぶきが上がる音がした。   

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