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第14章⑯

 青年は用心しながら井戸をのぞきこんだ。暗すぎて何も見えない。荷袋に懐中電灯を入れてきたが、わざわざ取り出す気にはなれなかった。  水をかく音も、助けを求める声もなく、かすかにブクブクと水面で空気の泡がはじける音が続く。まもなくそれも絶えて、圧倒的な静けさがもどった。  青年は深々と息を吐いた。首をまわすと、すぐ近くの地面で千代が両足を投げ出し、へたりこんでいる。乱れた着物の裾を直すことさえ、気が回らないようだ。目にした光景が信じられないというように、ただただ両目を見開いていた。 「……死んだの?」  尋ねる千代の声は震えていた。青年は無言でうなずいた。 「どうしよう……わたし、人殺しになってしまったわ」  それは違うと、青年は思った。  千代は田宮にけがを負わせたが、その後、田宮が井戸に落ちたのは完全に事故だ。仮に誰かがそれに異議をとなえようとも、青年は頑なに主張するつもりだった。  しかし、そういうことを紙に綴って千代をなぐさめるのに、適切な時でもなかった。  青年は母屋の方を眺めた。青年と田宮の起こした騒動は、さすがに家の中にいても聞こえたはずだ。使用人たちがいつ様子を見に来るか分からない。急いで行動しなければならない。  あの場所につながるものを――地図や、戦中に田宮が軍部から受け取った極秘の書類などを処分しなければいけない。屋敷へ戻る道中、移動しながら立てた計画では、田宮にすべての書類を処分させた後、千代を連れ出して逃げる算段だった。  しかし、田宮が死んだ今となっては、そういったものがどこに隠してあるかが、分からなくなってしまった。  数秒考え、青年は決心した。こうなれば屋敷もろとも証拠を隠滅するしかない。  荷袋をかきまわし、青年はアルミの水筒を取り出した。ただし中身は水や茶ではない。不発だった米軍の焼夷弾から抜き取った燃焼剤。大さじ一杯ほどの量で鍋一杯の水を沸騰させられるほど、強力な火力を発揮するナパームだった。 「いざという時のために、持っていけ」  仲間のひとりはそう言って、青年に危険な水筒をわたした。いざという時とはどういう時だと思ったが、結局、聞きそびれたままになってしまった。  今なら分かる。まさに、こういう時だ。  青年は蓋をあけると、水筒をふりかぶり、ドロドロした中身をすべて母屋の壁にまき散らした。それが済むと、数歩あとずさり、マッチに火をつけ、それを壁の染みに投じた。  バアッと炎が勢いよく燃え上がり、一瞬で軒瓦まで飲み込む大きさになった。炎を呆然と見つめる千代に青年はかがみこむ。彼女に向って、自分の口を見ろと指さした。 ――来い――  千代が従うかは、実のところまったく自信はなかった。  しかし、青年が腕を引いてうながすと、ショック状態にあるのか、千代はおとなしく立ち上がった。青年はどきどきしながら、ハサミで彼女の両手のいましめを切ってやった。  手を引いて歩き出すと、千代はそのままついてきた。  そのころになると、火に気づいた使用人たちが次々と母屋から飛び出してきた。  それを確認した青年は、井戸の向こうの藪へ向かった。その先に山道があり、下っていけば広い道に出る。  巨大な炎に追い立てられるように、二人の男女は速足でその場から姿を消した。 

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