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第15章④
――富士山上空、高度九千メートル――
一面、群青色の世界にジュラルミンの翼をもつ燕が八匹、浮いている。アメリカ軍からトニーのあだ名で呼ばれている日本陸軍の三式戦闘機「飛燕」は、過給機のついていないエンジンに薄い空気を吸い込んで、必死で高度を保っていた。気息奄々 なのは、なにも機体だけではない。操縦席に座る搭乗員たちも、零下五十度の極寒と酸素マスクをつけていてさえ補えない酸素不足に、ほぼ気力だけで耐えていた。
まつげさえ凍りつく操縦席の中で、「はなどり隊」の金本勇曹長はひたすら待ち続けていた。やがて雑音とともに、無線から待っていた合図が来た。
「――こちら、黒木。はなどり隊、全機に告ぐ。『くじらを釣れ』。繰り返す。『くじらを釣れ 』」
金本は操縦桿を握り、機銃のスイッチに指をあてた。
無線が切れると同時に、金本の前方、百メートルから二百メートルの距離で編隊を組んでいた飛燕四機が反転して背面飛行へうつった。先頭を飛ぶ隊長機――黒木栄也大尉の機体が上下さかさまになった一瞬、尾翼に描かれたペイントがきらりと光った。
黄色い満月に紅色の桜――新調したばかりの鮮やかなその印は、混戦状態であってもすぐに見つけることができる反面、敵の目にもとまりやすい。黒木が整備班長の千葉登志男軍曹の手を借りて、それを自分の機体に描かせた時、金本は一抹の不安を感じた。敵の航空隊の標的になりやすいのではないかと。金本の心配を、黒木は一笑に付した。
「望むところだ。機銃が俺に集中してくれた方が、まだやりやすい。俺は笠倉ほどじゃないが、逃げ回るのはそれなりにうまい」
黒木は搭乗員たちが集まっているピストを親指で指さした。
「あそこにいる奴らの大半は若鷲どころか、生まれたてのヒヨコみたいな連中だからな」
米田一郎伍長と工藤克吉少尉が戦死した後、「はなどり隊」には笠倉孝曹長を含め四人の搭乗員が新たに入った。その内、古参の笠倉を除く三人は飛行時間が二百時間ほどしかなく、技術も経験も足りない速成の新兵である。隊を率いる黒木が彼らの扱いに頭を悩ませていることを、金本はよく知っていた。
「とにかく、やつらをまずは生き残らせなきゃならん。そのために多少の危険をしょいこむのは仕方ないことさ」
そんな風に言われると、金本も黙るほかなかった。
金本の内心を知ってか知らずか、黒木は千葉が描くペイントを見てにやりと笑った。
「いい印だろう」
「…それは認める」
月と桜。金本は前に黒木の裸身を見た時、その美しさを月に照らされた桜にたとえた。
黒木がそれを喜んで、隊長機のマークを新しくしたのは明らかだった。
「どこにいても、すぐに見つけろよ」
黒木が冗談まじりに言う。金本はまじめな顔でうなずいた。
どこにいようとも、黒木の危機には絶対に飛んでいくに決まっていた。
急降下する黒木たちを、金本の小隊も同じ動きで追った。
天地がさかさまになった操縦席から、風防ガラスごしに富士山上空を横切って北進してくるB29の編隊が見えた。高度差は千メートルほどだ。全部で十六機いる。
前回もそうだったが、以前に比べてB29は二千メートルほど低い高度で来ている。その理由はいまだに謎だ。日本軍の戦闘機や高射砲など取るに足らないと思って、なめているのかもしれない。
だとしたら――その甘い考えを、徹底的に打ち砕いてやるまでだ。
急降下する黒木の後ろに、金本を含む七機が続いた。計器盤にある速度計の針が、ぐんぐん右へ傾いていく。時速五百キロメートル…六百キロメートル……ーー小魚ほどの大きさだったB29の機体が、みるみるふくらんでいく。
先頭を飛ぶ黒木は、編隊の最後尾を飛ぶ一機に狙いを定めていた。太陽を後ろにして突撃したのが功を奏した。飛燕の存在に気づいたB29が猛烈な機銃掃射を行う寸前、黒木の小隊の四機が後上方からその胴体や翼に機銃を撃ち込んだ。そのまま、狙ったB29の右後方をすりぬけて離脱する。その〇.五秒後、今度は金本たちの四機がほぼ直上から攻撃をしかけた。
金本は左側の翼と胴体の連結部を狙って撃った。一瞬、炎が上がったのを目の端にとらえたが、それ以上、損害を詳しく確かめる間はない。金本たちの飛燕は、B29の左後方を時速七百キロの速さで飛び去って行った。
離脱すると同時に、金本は両手で操縦桿を引き起こしにかかる。降下状態から水平飛行にうつった時、高度は一気に五千メートル近くまで落ちていた。
見上げると、今しがた集中攻撃をしかけたB29の機体から墨を引くように黒煙が上がっていた。
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