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第15章⑧

「……すまん。もう一度、言ってくれ」 「運よく、戦争が終わった後も生きていたらって話だ。お前だったら、まず何がしたい?」  黒木の質問の意図は分かった。けれども、金本はすぐに答えられなかった。  そんなこと、まともに考えたことはなかった。 「適当でいいんだ」黒木がうながす。 「それこそ今、思いついたことでいい」 「……それなら」  金本は太い腕で黒木を抱き寄せてささやいた。 「まず三日くらい、どこかに引きこもって、ひたすらお前を抱きたい。食事と寝ている時以外ずっとだ。あとのことは、それから考える」  黒木が吹きだして笑った。 「お前、とんだむっつりスケベだな」  金本は反論せず、逆にたずねる。 「お前は? 栄也。何がしたい?」 「俺か? そうだな。小さくてもいいから、庭のある家に住みたいな」  黒木は布団に手を伸ばし、金本と一緒にくるまった。 「そこで好きな花を育てたい。牡丹とか蘭とか、手間も時間もかかるようなやつを。水が溜められる池があれば、蓮やスイレンを入れてもいいな。夏になったら、風鈴を吊るした縁側で蚊取り線香をたきながら、のんびり眺めて過ごすんだ…」  金本は草花に囲まれた黒木の姿を想像してみた。  今より、髪は少し伸びている。それに表情ももっと穏やかになっているだろう。  花について語る時の黒木は、空戦について話す時と同じかそれ以上に生き生きとしている。今日も旅館の周りを散策しながら、豊富な知識の一端を披露していた。土に入れる肥料に何が適しているとか、果樹を植える時、ほんのわずかな高さの差で冷害に遭わない場合もあるというようなことを語ってくれた。  残念ながら、植物に対して生来無頓着な金本にとっては、猫に小判もいいところだ。今となっては「山に生えているキノコは基本食うなよ。ドクツルタケとか、一本であの世行きだからな」ということくらいしか、思い出せない。  布団の中で、黒木がもぞもぞと動く。金本の肩に黒木は額を当てた。「なんだ」と思っていると、 「……ネギとか菜の花、植えてやってもいいぞ」  伏せた顔の下から、かろうじて聞き取れるくらいの声がした。 「あと、柿も。簡単に世話できる紫蘭も――」  黒木が何を言わんとしているのか。鈍感な金本にもさすがに伝わった。  もしも戦争が終わって航空兵でなくなったとしても、一緒に居続けたい。  同じ屋根の下で暮らして、人生を分かちあいたいと――。 「――このへんでやめておくか。変にあれこれ期待すると、かなわなかった時につらくなる」  金本が口を開くより先に、黒木は自分からこの話題を打ち切った。 「なあ、蘭洙。あの歌、また歌ってくれよ」 「――……この身が死んで(イモミィチュッゴ)また死んで(チュッゴ)一百回(イベェックバン)死んだとしても(グッツォ チュッゴ)」  金本は黒木に乞われるまま、朝鮮語で時調を歌った。  金本の死んだ兄、金光洙がもっとも好きだった「丹心歌」だ。  ひと通り唱え終えると、今度は黒木が吟じてみせた。 「この身が死んで(イモミィチュッゴ)また死んで(チュッゴ)――」  いい声だ。歌い方もいい。なんというか――聞く者の心を揺さぶる哀切がこもっている。もっとも、これは金本の欲目かもしれないが。  金本が吟じているのを聞いて、黒木はこの詩が気に入った。それが金本には不思議だった。  昔、兄の光洙からくり返し聞かされたところでは、この詩は滅びゆく高麗に仕えていた役人が、新たに興った朝鮮への仕官を断った時に作った、いわば不変の忠誠をうたい上げたものだという。本質が不羈奔放である黒木の嗜好に、あまり合う気がしなかった。  そう思って聞くと、意外な答えが返ってきた。 「忠誠がどうこうというのは知らん。ただ、俺には恋の歌に聞こえたんだ」 「……こ、恋?」 「そうだよ。歌詞にあるだろうが。『たとえ百回死んでも。骨が塵になって、魂が消え失せても関係ない』とな。相手に恋焦がれてなきゃ言えないだろう、こんなこと」  日本の支配から解放され、朝鮮が独立することを願ってやまなかった光洙が聞いたら怒り出しそうなトンデモ解釈だった。  さすがの金本も、すぐには受け入れられなかった。  しかし黒木と一緒に何度か吟じる内に、それもひとつの捉え方ではないかと思うようになった。朝鮮人ではなく、日本人の黒木だからこそ持ちえた発想だ。  「丹心歌」を吟じる時、金本の内にはいつも兄への複雑な想いが渦巻いていた。  怒り。恨み。そして悲しみ。何度も何度も繰り返し歌っていたらいずれ、分かるのではないかと思っていた。兄がどうして、爆弾を抱えて自死する道を選んだかを。  けれども――結局、今に至るまで金本はまったく分からないままだ。    「この身が死んで、また死んで…」  また黒木が歌いはじめた。それにかぶせるように、金本も歌う。 「白骨が(ペッコリ)塵となった後(チントテヨ)魂があるか(ノクシラド)無いか分からないが(イッコオプコ)――」   歌う金本は、自分の心に新たな感情が芽生えていることに気づいた。  ずっとずっと、兄の影を追いかけて来た。  でも、もうその歩みを止めていいのではないか。光洙を理解しようとするのは、やめてもいいのではないか。  自分に残された時間は、おそらく長くはない。    金本はその時間を、黒木のために使ってやりたかった。      

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