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第15章⑩

 東の不吉な予言は、残念ながら的中した。  神戸への空襲があったちょうど一週間後、B29の大編隊は再び関東地方へ姿を現した。  その数、百機以上。狙われたのは、太田にある中島飛行機工場であった。  搭乗員に対する休暇は再び中断された。  それが再開しないまま、迎えた五日後の未明のことである。まだ夜も明けきらない時刻に、誰かがピストを歩き回る気配で金本は目を覚ました。黒木であった。黒木は金本の肩をたたき、さらに雑魚寝する搭乗員たちの間から笠倉を探して強引に起こした。  金本は黙って靴をはく。黒木の目つきから、すでによくないことが起こったと察していた。  案の定、だるまストーブの前に連れてきた二人の曹長に向かって、『はなどり隊』の隊長は告げた。 「夜の内に情報が入った。南の海域で、米軍の機動部隊の動きが急に活発になりだしている」  眠そうに目をこすっていた笠倉が、それを聞いてピタリと動きを止めた。黒木の言った意味が分からぬわけでもないのに、あえて聞き返す。 「…そいつはつまり」 「艦載機が来るってことだよ。しかも台湾や沖縄じゃなく、本土に来る公算が高い」  黒木が発するひと言、ひと言が、あたかも鞭のように金本と笠倉をたたいた。  空母で運ばれて来たアメリカ海軍の艦上戦闘機、F4U「コルセア」やF6F「ヘルキャット」が、本土上空へ飛んで来る――金本は頭では理解したものの、身体を沁みとおって心に届くまで、なお時間が必要だった。 「…かんべんしてくれよ」  金本の横で笠倉がうめいた。金本より二歳年長の曹長は、前に米軍の戦闘機P―47に撃墜され、死にかけた経験がある。自分で思う以上に肝が太い笠倉だが、さすがにその時のことを思い出すと嫌な汗が出てくる。  さらに、笠倉がこの状況を危惧するのには、別の理由もあった。 「正直な話。うちのひよっこたちに、米軍の戦闘機とまともにやり合うだけの技量があると思います?」 「ないだろうな」  黒木は即答した。 「だが、迎撃の命令が下れば飛ぶしかない。二人とも艦載機種との戦闘経験は?」 「あります」金本が言う。 「そりゃ、基地の近くまで来たやつは、追っ払うしかなかったんで」  笠倉が少しやけっぱち気味に答える。 「なら、覚悟を決めろ」  黒木の態度は、どこまでも冷厳だった。 「率いるのがひよこだろうが、雛鳥だろうが関係ない。『はなどり隊』で米軍戦闘機との空戦経験があるのは今ここにいる三人だけだ。いいか。この三人でひよこ連中をできる限り死なせないように、乗り切るんだ。間違っても、テメエが撃ち落とされるような無様な真似をさらすんじゃないぞ」  敵の機動部隊の活動が活発化しているという情報は、直前まで他の搭乗員に伏せておくことになった。戦隊長の決定したことである。むやみに不安をあおり、精神的に消耗するのを避けるためだった。  それを聞いた時、金本と笠倉は期せず同じ男のことを思い浮かべた。副隊長の今村少尉である。この三ヶ月弱、B29の迎撃に出続けた今村は、夏の頃に比べて格段に腕が上がった。未熟な点は残るものの、なんとか黒木の僚機をつとめられるくらいの力はついた。  ただ技術が上がった分、自分の欠点や足りない部分も前より分かるようになり、それが強迫観念のように頭から離れなくなっているらしい。飛んでいる間は、まだいい。問題は地上に降りた後で、神経の細いこの青年は毎回のように頭痛と胃痛に悩まされていた。 「今村には適当な時に、俺から伝える」  黒木の意見に、金本も笠倉もあえて反対しなかった。  話が済んだ後、笠倉は早々に寝床に戻って行った。 「…とても寝られそうにはないですけど。休める時に、身体を休めときますよ」  むやみに騒がず、こういう行動が取れるあたり、さすがに古参兵と言えた。  一方、黒木と金本は二人きりになりたくて、連れ立って外へ出た。  飛行場という場所は完全に寝静まるということはない。たとえ深夜であっても、宿直の兵士は起きているし、場合によっては整備兵たちが徹夜で点検や修理を行っている。それでも搭乗員たちが寝起きするピストのまわりは、静寂が保たれていた。  ピストを出てすぐのところで、黒木は足を止め、何も言わずに金本にもたれかかった。  受けとめた金本は胸がつまった。黒木がすさまじい重圧に耐えているのが、痛いくらいに分かった。  『はなどり隊』はこれまで、曲がりなりにもB29相手に空戦の経験を積んできた。だが、戦闘機との戦いはまた勝手が違う。たとえるなら、狩りの獲物が巨大な象か、すばしっこい鹿かくらいに異なる。これまでに対戦闘機を想定した訓練を積んできたとはいえ、飛行時間が四百時間程度しかない――最近の補充された新米に至っては、二百時間に満たない――搭乗員たちを率いて、高性能の米軍戦闘機と戦えというのは、どう考えてもまともではなかった。  今度の戦いは、これまで以上に厳しくなる。  おそらく犠牲者が出る。それも、運が悪ければ何人も――。  いっそ黒木をここから連れ出して、どこかへ隠してしまえれば、どんなにいいだろう。  金本は思った。そうすれば、もうこの男は傷つかずにすむ。  この狂った末期的状況には、ほかの誰かが対処すればいいのだ……。 「――おい。痛えよ」  その声で金本は我に返る。気づかぬうちに、黒木に回した腕にきつすぎるくらいの力をこめていた。 「俺は大丈夫だ」黒木は低い声で言った。 「だからそんなシケた面するな。こっちまで、暗い気分が感染っちまう」  黒木の大きな瞳を、金本はのぞきこんだ。そして、理解する。  黒木はこの崖っぷちの状況でも、自分の責務を果たす気でいる。  はじめから分かり切っていたことだ。『はなどり隊』を率いるのは、激情と不屈の闘志を持つこの男以外にはありえない。  金本は顔を寄せてささやいた。 「――お前は最高だ。今まで俺が出会った誰よりも、いちばんすごいやつだ」 「はは。そいつはちょっと、褒めすぎだ」 「本気でそう思っている」 「…そうかよ。じゃ、同じセリフを、今度は寝床の中で言ってくれ」  それを聞いて金本は少しだけ笑った。しばらく、そのまま抱き合った後、黒木は自分の方から身体を離した。  金本に向けた顔には、もはや迷いも弱さも、脆さもなかった。  そこにいたのは陸軍航空隊で、もっとも危険で美しい指揮官――『はなどり隊』隊長、黒木栄也大尉だった。

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