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第15章⑪

 仮に箝口令が敷かれていても、噂と言うのは風のように広がっていくものらしい。  正午に達するより前に、「艦載機、本土襲来」の話は搭乗員だけでなく、整備兵たちにまで知れわたっていた。しかし、その真偽を議論する余裕はない。  昼食後すぐ、浜松飛行場内に空襲警報が鳴り響いたからだ。  B29の編隊が、ここにきて再び北上してきた。目標は名古屋と浜松にある航空機関係の工場であった。黒木たちは浜松上空に現れた編隊の一機に襲いかかり、いつものように狙い撃ちにした。撃墜には至らなかったが、洋上まで追い払った時には、左翼の二つのエンジンから激しく煙が上がっていた。帰途で墜落した可能性は高く、後に戦果として撃破と認められた。  日没後、ピストでの夕食は静かだった。戦闘があった後は、誰もが疲労から無口になる。  しかしこの日の沈黙はいつもと違っていた。普段はひと息入れる時間だが、妙な緊張感が漂っている。  そして食事がすんだあと、ついに黒木が搭乗員全員を集めて告げた。 「――数日以内、早ければ明日にも敵機動部隊の艦載機が本土に襲来する」  ざわめきが搭乗員の間に走る。それを制するように、黒木の鋭い声が飛んだ。 「今から大事なことを言うから、よく聞けよ。次の戦いだが――戦果を出すことにはこだわるな。最重要目標は、ここにいる全員が一人も欠けることなく生還することだ」  とまどい、顔を見合わせる面々に向かって、「はなどり隊」の隊長は言った。 「おかしなことを言うと思っているだろうな。もっともだ。貴様らは戦闘機を想定した訓練を重ねてきた。ようやく実戦の機会がめぐってきて、気が高ぶっているやつもいるだろう。だがこの際、はっきり言っておく――金本、笠倉の両曹長を除いて、まったくもって力不足、何より経験不足だ。笑い話にもならないが、敵の力量はおろか、自分の力もわきまえんまま、墜とされたやつを、俺は今まで数えきれないくらい見てきた。……いいか。本来なら、貴様ら程度の飛行時間で、戦場に出ることはまずない。だが知っての通り、今はもうそんなことを言っていられる事態ではない。正直な話、B29との戦いは本当によくやってくれていると思う……おい、そこ。変な(つら)するな。俺だって、たまには人をほめるんだよ。だからこそ、貴様らにはおいそれと死んでもらっては困る。戦いはまだ続くんだ。今よりマシな搭乗員になってもらうために実戦で経験を積ませるが、死んでは元も子もない。そこのところ、よくよく理解しろ。繰り返すが、生き残ることを最優先にするんだ。いいな?」  黒木が念押しすると、今村を筆頭に全員が「はいっ!」と答えた。  『はなどり隊』の隊長は一同を見わたすと、秀麗な顔に凄絶な笑みを浮かべた。 「――もし、言いつけを守らずに、うかうか命を落とすやつがいたら。あの世だろうが、どこだろうが関係ない。地の果てまで追いつめて、たたき斬るから、そのつもりでいろよ」  黒木は冗談のつもりで言ったが、誰ひとり笑う者はいなかった。  黒木が整備兵の宿舎に軍刀片手で乗り込んだ一件は、いまや伝説と化している。たとえ死後であっても、真剣を手に殺意をたぎらせた『羅刹女』に相対する勇気がある人間は、この場に一人としていなかった。  その夜、熟睡できた人間はほとんどいなかった。金本でさえ浅い眠りと覚醒の間を行き来している内に朝を迎えた。これ以上は眠れないと悟った金本は、寝床をはい出して顔を洗うために外へ出た。  頭上は快晴にほど遠い、曇り空だった。おそらく上空の視界もよくないだろう。雨ともなれば戦闘はおろか、ただ飛行するだけでも晴天時の何倍も神経を使うことになる。  もっとも、それは敵であるアメリカの航空兵も同じであろうが。  太平洋の沖合に浮かぶ空母の上で、出撃を待つ彼らは何を考え、話しているだろうか――金本はほんの一瞬、そんなことに思いをはせた。  そしてついに、戦いの開始を告げる鐘の音が響き渡った。  朝食をとっている最中に、スピーカーから最大音量でサイレンが鳴り出したのである。  まがりなりにもあった「日常」は、その瞬間に跡形もなく吹き飛ばされた。 「――全員、出撃だ。急げ!!」  黒木のひと声で、搭乗員たちはいっせいに朝食を放り出して立ち上がった。 「意地が悪いな、敵さんも。朝メシくらい、ゆっくり食わしてくれよ」  ぼやく笠倉のかたわらで、金本は飛行帽子と眼鏡をつけ、手袋をはめる。落下傘をかついで外に出ると、すでに飛行場の各所でエンジンの大合唱がはじまっていた。  金本は愛機を目指して、最短距離で駆ける。飛燕を駐機させた場所へたどり着くと、すでに整備兵の中山たちの手で、準備はすべて整えられていた。  一月以来、金本の飛燕は再び十二.七ミリ機銃を四丁搭載する形に換装されている。二十ミリ機関砲、「マウザー砲」の弾丸が底を尽いたからだ。現在の戦況下でドイツ製機関砲の弾の輸入は絶望的であり、仕方のないことであった。  金本は翼へよじのぼり、ムダのない動きで操縦席へすべりこむ。エンジンを始動させ、中山の手を借りて落下傘を飛行服の縛帯に取り付ける間、急いで目を計器類に走らせた。すべて異常なし。プロペラの音も快調だ。  翼の上にかがんだ中山が、液冷エンジンの音に負けないよう大声で叫んだ。 「昨日、お伝えしたように、対戦闘機戦を想定して、機銃の弾数を増やしています! そのせいで、いつもより機体が重く感じるかもしれません」 「分かった! 夜を徹しての作業、ご苦労だった」  声を張り上げる金本に、中山がうなずく。童顔の整備班長の表情は、いつもよりかたい。  金本の機付きとなって以来、中山が整備した飛燕が戦闘機を相手どって戦うのはこれが初めてだった。昨夜はいつも以上に、点検を万全に行ったが、それでも不安はぬぐいされない。  もし万一、ミスがあって、それが原因で金本を危険に追いやるようなことがあれば、死んでも償いきれない。  その時、金本がわざわざ飛行眼鏡を上げて、中山の方を見た。 「必ず、戻ってくる。約束する」  その言葉に、中山は目頭が熱くなった。けれども、泣くのはさすがに格好悪い。それに金本を困惑させるだけだろう。だから、さも砂ぼこりが入ったようにまぶたをこすった。  それから、心の内で一番大事に想う男の顔をしっかり目に焼きつけた。 「――どうか、ご無事で。帰ってくるのを、待っていますから」  名残惜しいが時間がない。中山は翼の上から地上に下りた。 「車輪止め(チョーク)外せ!!」  整備班長の指示に整備兵たちが急いで従う。  飛燕が滑走路へ向かって動き出す。中山たちも駆け足で滑走路脇へ向かう。そこでは次々と離陸していく戦闘機に向かって、整備兵たちがひっきりなしに帽子を振っていた。  金本の飛燕が飛び立つ時、中山はちぎれん程の勢いで、何度も何度も腕を振った。

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