282 / 370

第15章⑫

 「はなどり隊」の飛燕たちは、飛行場の上空二千メートルで編隊を組んだ。その後、隊長である黒木の指示で高度三千メートルまで上昇し、侵入情報があった関東方面へ向かった。  離陸後、三十分ほどが経過した時、金本は三時方向に同高度で飛ぶ航空機の集団を認めた。急いで黒木に報告する。待つこと数分、ようやく海軍飛行場の零戦部隊であると、返事がかえってきた。 「友軍機が多いのは、けっこうなことだ。だが油断はするな。何か見つけたら、またすぐに知らせろ」 「了解」  「はなどり隊」の中でもっとも索敵能力が高いのは金本だ。黒木ですら広大な空に敵を見出すことに関しては、部下であり恋人である男に一歩及ばなかった。  戦闘機同士の戦いは、戦う前から始まっている。そのことを、金本は熟知していた。  どれだけ敵に先んじて優位な攻撃位置を取れるかで、その後の勝敗が大きく変わってくる。極論すれば、こちらの接近に気づかれることなく背後や上下方から忍び寄り、奇襲で撃墜してしまうのが一番理想的な「空戦」だ。それだけに、敵を一秒でも早く視認する必要があった。   味方があちこち飛んでいるのはありがたくもあったが、敵か否か識別が必要な分、やっかいと言えばやっかいだった。  それからさらに半時間の間に、金本は二度、航空機集団を発見したものの、どちらも味方機であることが確認された。  状況に変化が生じたのは、八時半過ぎだった。  すでに最初の警報から一時間半が経過している。艦載機の性質を考えれば、目標への攻撃を終えて、帰投し始めていてもおかしくない頃だ。千葉県上空にさしかかった時、索敵を続ける金本は、ふいに上空の一点に目をとめた。雲と雲の切れ間で、何かが光った。目をこらしすと、今度ははっきり見えた。航空機の集団だ。  距離はあったが、今まで見たものと雰囲気が違うことを、金本ははっきり感じ取った。 「――こちら、金本。九時方向に飛行中の集団を発見。距離は一万五千。俺の勘ですが、おそらく敵です」  報告すると、すぐに返答がかえってきた。 「黒木だ。了解した。接近する。金本、誘導を頼めるか?」 「まかせてください」 「よし、行け」  金本とその小隊が、ほかの飛燕の前方に出る。約十五キロ先にいる集団は、南南東へ向かっているようだ。このまま進んでいけば、はなどり隊の背後に食いつかれる。その事態は、もっとも避けなければならない。  陽光の反射で気づかれる危険はあったが、金本は迷わず飛燕を右へ旋回させた。もし発見されなければ、距離を保ったまま相手集団の後ろへ回り込むことができる。  旋回する間も、金本は注視をおこたらない。彼方を飛ぶ航空機群の動きに変化はない。どうやら、金本たちの存在にまだ気づいていないようだ。 「前方、十一時方向に雲があります。隠れるのにちょうどよさそうですが、どうします?」  金本の提言に、黒木は意外にも「やめておく」と答えた。 「俺が敵なら雲がある所こそ、一番警戒する。それより、旋回しながら上へ行け」 「了解。高度は?」 「四千五百を取れ」 「分かりました」  短いやり取りで、黒木の意図は完全に伝わった。後上方から奇襲をかける気だ。 「…これで味方機だったら、とんだ恥だな」  金本は酸素マスクの下でつぶやく。しかし、航空兵としての直感はしきりに告げていた。  これから始まる戦いに備えよ――と。  金本は操縦に集中した。編隊を保ったまま、はなどり隊の飛燕たちが後ろへ続く。  それから十分足らずの内に、ジュラルミンの燕たちは、ほぼ完璧な形で相手集団の後上方に回り込んだ。  近づき、機影がはっきりするにつれ、金本は自分の勘が正しかったと分かった。  ずんぐりとした、決して見栄えがいいとは言えない体躯。だが、その飛行性能は、俊敏な飛燕にまさるとも劣らない。  「性悪女(ヘルキャット)」の異名を持つ米海軍の艦上戦闘機F6F以外の何者でもなかった。  その数は「はなどり隊」の三倍ほどもあった。通常、敵味方の数にこれほど差がある場合、戦闘は避けてしかるべきだ。しかしF6Fたちはこの期に及んでも、金本たちの接近に気づいていない。迎撃態勢はおろか、回避行動を取るそぶりさえ見られなかった。  無線から黒木の声がした。 「見ろ。敵地だというのに、やつら油断しきっている――金本曹長!」 「はい」 「名誉ある一番槍をくれてやる。突っ込んで、ひっかき回せ。たるみきった連中のケツを、思いっきり引っぱたいてやれ」 「了解!」  返事と同時に、金本はフットレバーを操作して背面位をとった。そうしないと、機体が降下する時に揚力が生じて、思うような操縦ができなくなる。  さかさまになった操縦席の風防ごしに、金本は飛行するF6Fの編隊を眺めた。整然と群れをなした姿は、海中を泳ぐ回遊魚に似ていた。  金本は呼吸を整えると、スロットルを開いて一気呵成に降下した。  のぞきこむ光学照準器の中で、狙い定めた一機のF6Fがぐんぐん大きくなる。それがはみ出すほどにふくらんだ刹那、金本は操縦桿についた機銃の発射ボタンを押した。  その時になってやっと、F6Fの搭乗員は敵の存在に気づいたようだ。だが、回避行動を取るには遅すぎた。飛燕の一二.七ミリ機銃から放たれた弾丸は、六十メートルの距離を0.1秒にも満たぬ間に突っ切って、「性悪女」の操縦席の風防ガラスと、搭乗員の頭蓋を吹き飛ばした。  頑丈さで知られたF6Fは主を失ってなお数秒間、何事もなかったかのように飛び続けた。それから、ようやく搭乗員の死を悼むように、機首を下にしてきりもみ状態で墜ちていった。  その頃にはすでに、F6Fの編隊は大混乱に陥っていた。石を投げ込まれた魚群のように、散開し、回避行動を取りつつ、小隊ごとにバラバラの方向へ逃げにかかる。慌てふためく一群に対して、黒木と笠倉、さらに旋回上昇してきた金本が、容赦なく襲いかかった。  それからわずか二分の間に、二機のF6Fが撃墜された。一機は黒木に後ろにつかれて、十発以上の弾丸を浴びた末に、もう一機は笠倉と東に挟み撃ちにされて、炎上して墜ちていった。  だが、F6Fもいつまでも逃げまどってはいない。また、突如として現れた燕たちが決して多数ではなく、せいぜい十数機しかいないことに気づく搭乗員もいた。  黒木は、引き時を見誤らなかった。 「戦闘止め。敵が立ち直る前にずらかるぞ! 笠倉、先導しろ」 「了解でーす」  退却の指示に、笠倉は嬉々として従った。金本と並んで戦歴の長い曹長は、戦いつつも退路を確保する算段を忘れてはいなかった。  笠倉はスロットルを全開にして、高度四千メートルを目指した。戦闘前に金本が注視していた巨大な雲が移動してきて、ちょうど煙幕のように広がっていた。  怒りをたぎらせ復讐戦を挑もうとするF6Fたちをしり目に、笠倉は味方を誘導して全速力で安全地帯へと離脱させた。

ともだちにシェアしよう!