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第15章⑬
復讐への渇望があったとはいえ、F6Fたちは雲に突っ込んでまで深追いしてくることはなかった。わずか数分の間に思わぬ損害をこうむったことで、慎重になったのかもしれない。敵が追って来ていないのを確認し、金本はようやく警戒心を一段階、下げた。離脱する時、金本がしんがりをつとめていた。
――初戦としては上々だ。
航空隊の指揮官として、黒木がきわめて有能であることを金本は改めて実感した。
帝国陸軍にせよ、帝国海軍にせよ、日本の戦闘機乗りの間では一対一の巴戦 を至上とみなす思想が根強い。しかし、搭乗員の平均的な技量水準が著しく低下しつつある現状において、むやみに格闘戦を挑むことは、容易に撃墜される結果を招きかねない。
だからこそ今回、黒木はあえて集団による一撃離脱を基本的な戦術と定めた。実のところ、これは敵である米軍が常套手段で用いる戦法である。もし他の指揮官なら、アメリカの真似をすることなど、思いもよらなかったかもしれない。だが、こと戦闘に関する限り、黒木は柔軟で合理的な思考が働く。理屈に合わない伝統を捨て、敵から長所を学ぶことに躊躇はなかった。
「…それにしても、今日は本当に雲が多いな」
金本たちが今いる空域では、二千メートルから五千メートルの高さまで、まるで白い山脈のように連なっている。視界が悪くなってきたことで、金本は再び警戒心を強めた。先ほどのF6Fの集団が考えを翻して、追いかけてこないとも限らない。
そう考えた矢先のことだった。
「――三時方向に敵!!」
誰のものかも分からぬ裏返った声が、無線から響き渡った。
金本は瞬時に急旋回した。しかし、言われた方角に見えるのは厚い雲ばかりである……。
その直後、雲と雲の切れ間から、戦闘機の翼が抜き身の刃のように突然、姿を現した。
操縦席の中で金本は驚きを通り越して、戦慄した。距離は千メートルもない。自分も含めて誰ひとり、これほど接近されるまで気づかないことは通常ありえない。だが雲量の多さが災いした。何層にも連なった雲が、接近する敵の存在をすっぽりと覆い隠してしまったのだ。
急激な旋回で生じたGにより、身体が座席に押しつけられる。首をねじって後ろを振り向くと、飛燕の背後から四機の敵機が追尾してくるのが見えた。すべてF6Fである。先刻の敵か、新たな敵か、見極める余裕はない。F6Fたちは、編隊の最後尾にいた金本に狙いを定めて、我先にと迫ってきた。
その時点で、すでに僚機の松岡を含む小隊三機とは分断されてしまっていた。
ーー囲まれたら不利だ。
金本は雲に飛び込んだ。スロットルを全開にして、旋回上昇にうつる。
そのまま、五百メートルほど上がったところで、視界が急に開けた。
金本の進行方向に、四千メートル四方ほどにわたって青空が広がっていた。雲と雲に挟まれたその空間では、すでに敵味方が入り乱れて交戦状態に入っていた。
「――まずいな」
一瞥して、味方より敵の数の方が多いことに気づく。敵はまたしてもF6Fの集団だ。金本の後ろにいた四機を含めれば、倍近い差があった。
迷っている暇はない。金本は横にすべるような飛び方で、戦いのただなかに突っ込んだ。
青空の闘技場では、高速で飛燕とF6Fが飛び交い、ひっきりなしに曳光弾がさく裂していた。命がけの派手なショーの合間に、無線から味方の声が入る。
「撃つ前に、後ろをまず見ろ! •••ほら、そこ! 東、それから根津! 狙われているぞ!!」
「下へ抜けろ!! 今村、まずは体勢を整えてから戻ってこい」
「上を見ろ! あそこにも敵がいるぞ!!」
それらを聞く間に、金本はあることに気づいた。
よくよく見れば、飛び交う機銃の弾の八割以上が、敵のF6Fから放たれていた。無茶苦茶な撃ち方で、早急に弾切れになるのは目に見えていた。
その発見を、金本は少々呆れながら、味方に知らせた。
「ーー落ち着け! この敵は実戦慣れしていない。訓練を思い出して、冷静に対処するんだ」
実戦経験のない航空兵ほど、彼我の距離を測らず、照準器に入ったものをむやみやたらと撃ってしまうものだ。どうやら、今、相対しているF6Fのパイロットたちは、大半が新兵のようだ。それが証拠に撃っても撃っても、撃墜される飛燕は一機も出なかった。距離が離れすぎていては、当たるものも当たらない。
金本は知る由もなかったが、本土に飛来したアメリカ海軍の艦載機の内、実に半数が、この日が初めての実戦だった。搭乗員の技量未熟の問題は、なにも日本に限った話ではなかった。攻勢を強めるアメリカは、日本を追い込むために、各地の戦いで万単位で次々と兵力を投入する必要があった。そうなると質は二の次であり、とにかく数をそろえることが第一となる。アメリカ本土で必要な訓練を終えたら即、戦地投入というケースが常態であり、それは航空戦力においても変わるところではなかった。
それでも、さすがに何人かマシな人間はいた。戦闘の何たるかをわきまえている搭乗員たちはすぐには撃たない。撃つのは、追っている相手が確実に射程圏内に入った時だ。
そういう危険なパイロットたちが、味方の飛燕の背後につくのを金本は積極的に邪魔した。もちろん、自分の後ろにつかれた時もあった。だが、そのつど巧みな操縦でふりきった。
そうやって派手なだけで得るものがない戦いが、十分ほど続き、やがて敵も味方も息切れしだした。それを見計らったかのように、黒木から指示が飛んだ。
「敵がもうすぐ退却する。それに合わせて、こちらも距離を取れ」
それから十秒も経たないうちに、はなどり隊隊長の予告した通りになった。
南へ退いていく敵を黒木は追わなかった。追撃しても、先ほどのような消耗戦が繰り広げられるだけなのは、分かり切っていた。
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