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第15章⑮

 今村が撃墜されたことは、敵味方の士気に目に見えるほど影響を与えた。  仲間がやられたことで飛燕たちの間に動揺が走り、動きがにぶる。それと対照的に、敵のF4Uたちはここだとばかりに攻勢に出た。  今村を仕留めた機体とそれから別にもう一機が、さらなる戦果を求めて獲物を探す。不運にも標的となったのは笠倉と東だった。  二機のF4Uはさらに二機の味方と合流し、一個小隊四機で飛燕を囲い込もうとする。それにいち早く気づいた笠倉は、背中に冷や汗が出た。 「東! 敵さんにかまうな。とにかく俺について来い……おい、返事!」 「了解!」  無線は雑音がひどい。東が冷静さをまだ保っているか否か、声からは判断できなかった。 −−嫌な展開だ。  笠倉は口に出せるものなら、そうぼやきたかった。もちろん、今そんな余裕はないが。  F4Uたちの動きは、群れで狩りを行うシャチの空中版と言ってよかった。俊敏で獰猛で、何より連携が取れている。並の相手であれば、一分と経たずに追い込んで狩ることができたに違いない。  しかし残念ながら、彼らが追いかけていたのは「逃走」にかけては日本の陸海軍でも一、二を争う技量の持ち主だった。  笠倉は長年の経験で培った眼力で、敵四機の動きをほぼ正確に予測してのけた。と同時に、そこから東を連れて逃げ出す最適な飛び方を選択して実行する。墜とされないために、死力を尽くした。  F4Uたちは二機の飛燕と幾度も距離をつめ、囲い込み、後ろから必殺の射撃を浴びせようとした。だが、どういう理屈か、決定的な瞬間に、燕はひょいと射線の外へ逃げる。あたかも、リズム感の合わない相手とダンスを踊っているように、動きがかみ合わない。  墜とせない。幾度となくチャンスに恵まれながら、びっくりするくらい墜とせない。  いたずらに時間が過ぎていく中で先に集中が切れ、周囲への注意がおろそかになったのは、F4Uの方だった。眼前の飛燕たちにもてあそばれた挙句、後ろから迫る機影に気づかぬまま、射程圏内への侵入を許してしまった。  敵二機を急降下でふり切って、再び上昇してきた黒木は、最後尾にいたF4Uに機銃を撃ち込んだ。その一撃で部下二人を救い出し、今村のかたきを討ったのである。  激戦の末、はなどり隊は辛くもF4Uたちを追いはらい、調布飛行場を守り切ることに成功した。とはいえ、敵が再び来襲する可能性は高い。黒木は指示を飛ばし、急いで生き残った十三機で編隊を組んだ。 「ながと(調布作戦室)、ながと。こちら、はなどり。これより上空の哨戒任務につくー−」  黒木は淡々と地上管制官と交信を行う。すぐに返事がきた。 「はなどり、はなどり。こちら、ながと。了解した。それから−−」  続く管制官の言葉を耳にした時、聞いていた搭乗員全員が、聞き間違いか誤報かと思った。  それがまぎれもない事実だと知った黒木は飛燕の操縦席の風防を開け、拳を突き上げた。 「――あの野郎。俺ですらできなかったことを、やりやがった!」    先ほど十分な燃料補給を受けられなかった金本は、それから間も無く調布飛行場へ再着陸することになった。  降下するにつれて、地上の様子がはっきり見えてくる。二本ある滑走路の一本に整備兵たちがむらがって何かを取り囲んでいる。その正体を悟った金本は、酸素マスクの下で感嘆の息を吐いた。  それは片方の翼を失い、逆さまにひっくり返った状態で止まった「飛燕」だった。  着陸後、愛機を駐機場の整備兵たちに委ねると、金本はすぐさま片翼となった飛燕のもとへ駆けた。いつまた敵機の空襲があるか分からない中、整備兵と飛行場付きの軍医らは、可能な限りの速さで損傷機の撤去と、負傷した搭乗員の手当に当たっていた。  金本が探していた相手は、今まさに担架に乗せられて安全な防空壕へと運ばれるところだった。 「今村少尉!」  金本の呼びかけに返ってきたのは、か細いうめき声だった。今村はぐったりしていたが、見たところ大きな怪我はない。とはいえ目は閉じたままで、まるで悪夢にうなされているような苦しげな表情だ。 「貴官は、彼と同じ部隊の者か?」  軍医の問いかけに、金本は頷く。 「今村少尉どのは…」 「そう心配せんでも大丈夫だ」  軍医は安心させるように、金本の肩を飛行服ごしにぽんと叩いた。 「機体がひっくり返った拍子に計基盤に叩きつけられて、いくらか青あざを作ったが。頭蓋骨も含めて、折れている骨はない。ひょっとすると、一本くらいヒビが入っているかもしれないが…」  軍医は呆れと賛嘆が入り混じった顔で、首を振る。 「まったく運がいい。降りてくるまでに、二、三回は死んでいておかしくなかったぞ」  金本も同感だった。というより、翼が折れた飛燕が墜落していくのを見た時、反射的にもう助からないと思った。落下傘降下を試みる間もないくらい、低い高度だったからだ。  その時、今村がまたうめき声を上げ、薄目を開けた。それから、途切れとぎれに何か話し出した。耳元にかがむ金本の耳に聞こえてきたのは、「……スロットル全開で……操縦桿を少し引いたんだ」だった。 「瞬間的に上昇した……曹長の言った通りだった」 「彼は何を言っているんだ?」  軍医が首をひねる。だが、金本には今村が言わんとしていることがちゃんと伝わった。  F4Uに狙われていると知った今村は、とっさに回避行動を取ったのだ。  スロットル全開で操縦桿を引くと、揚力がはたらき機体が瞬間的に上昇するーーそれはかつて、金本が今村と模擬戦闘を行なった時に、今村の追撃を振り切るために使った手だった。 「覚えていたんですね」  金本が言うと、今村がうなずいた。 「結局、撃たれて終わったが…」 「何を言っているんです。生還したんだから、大したものです」  金本は滑走路の方を振り返った。片翼で逆さまになりながらも、古巣へ戻ってきた気概ある燕に目を細める。 「あんな状態で着陸するのはまず無理です。少なくとも俺では、できなかった。後でどうやったか、ぜひとも教えてください」  それを聞いた今村が、苦しい顔で笑った。そしてひと言、 「ありがとう」  と言ってまた目を閉じた。 「…生き残ってくれ。全員、最後の最後まで諦めたらだめだぞ」   担架が防空壕へ運ばれていくまで金本は見送った。  今村との間には、ずっとわだかまりがあった。けれども今のやり取りで、それが完全に氷解した気がした。

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