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第15章⑯
金本の後にも、燃料補充が十分でなかったり、先ほどの戦闘で弾薬を減らした搭乗員たちが順次、補給を受けるために飛行場へ降りてきた。
時刻は正午を過ぎて、昼の一時に近づこうとしている。たちこめていた雲はようやく他所へ移動したようで、太陽がのぞく時間が増えてきた。
滑走路から自分の飛燕のもとへ戻る途中、金本は軽い頭痛を覚えた。足を止めるとまもなく痛みは去ったが、歩き出すとまたぶり返してきた。無理もない。早朝から五時間近く飛びっぱなしで、その間に三回も空中戦を行ったのだ。緊張が緩んだ時に、疲労が一気に表に出てきておかしくなかった。
それでも経験則で、この程度ならまだ大丈夫だと判断する。自分はまだ戦える。むしろ心配なのは、他の搭乗員たちの体調だ。
とりわけ黒木のことが。
飛燕の操縦席に戻った後、金本は計基盤にはめ込まれた無線のスイッチを入れて黒木へ呼びかけた。
「どうした?」
三千メートルの距離を隔てて聞こえてきた声は、相変わらず雑音がひどい。顔の見えない相手の体調を判断するのには無理がある。もどかしさを感じ、金本は思わず空を仰ぐ。
「−−今村少尉どのの代わりに。大尉どのの僚機を、俺につとめさせていただけませんか」
頭で考えるよりも先に、そんな台詞が口をついて出てきた。
言ってから金本自身、少し驚いた。けれども、本心から出た言葉だ。
こんなに戦闘が続き、体力が削られれば、いやおうなく判断力はにぶる。黒木ほどの実力者でも、一度のミスが文字通り命取りになりかねない。
黒木のそばで飛び、彼を守りたい――金本は切実に思った。
しかし案の定と言うべきか。黒木の返答は「却下」だった。
「貴様には小隊を率いてもらわないと困る。今村の代わりは、松岡にやらせる。いいな」
「……了解です」
金本は反論したい気持ちを飲み込んで答えた。
黒木が正しい。けれども、失望を禁じ得なかった。
暗い顔で金本が通信を終えようとした、その時である。
「ヤー 、蘭洙 」
金本は思わずぎょっと目をむいた。金本の反応をまるで見たかのような間を置いて、黒木が続けた。
「ナジュネ 、ペクへ イマチョムハダ 。クラニカ 、プルピョン ハジマ —―サランへ 」
言うだけ言って、ブツっと通信が切れた。固まったまま、金本はしばらく呆然としていた。無線が宇宙で交わされる火星人の会話をキャッチしたとしても、これほど驚きはしなかっただろう。整備兵から「補給完了」を告げられた時も、おざなりな返事を返すのが精一杯だった。
「……あの男」
金本は口を手で覆ってうめいた。
軽く一 ダースを越える人間が聞いている公的な通信網で、愛の告白をするんじゃない。
はなどり隊の搭乗員や地上管制官の中に朝鮮語を解する人間はいないと思うが、万一、内容がバレたら切腹ものだ。無線の不具合で、会話が不明瞭になったと判断されることを祈るだけだ。黒木の大胆で不埒な言動に、金本は怒りを覚えた。その一方で、離陸命令を待つ間、今しがたの台詞を頭の中で繰り返すことをやめられなかった。
愛してる 。愛してる —―…くそ。
顔が勝手にゆるんでくる。先ほどまで感じていた頭痛も疲労も――せいぜい一時のことだが――どこかへ消し飛んでしまった。
――いいだろう。百回どころか、その倍、つき合ってもらうぞ。
金本は心の中で宣言した時、再び無線が息を吹き返した。地上の管制官からだ。
金本はたちまち表情を引きしめた。
「はなどり、はなどり。ながと 、ながと。あおぞら 、あおぞら。繰り返す––」
はなどり隊が指定された空域に到着した時、救援要請をしてきた味方の「らいちょう隊」の飛燕は、すでに八機にまで数を減らしていた。元来、十二機前後で構成されていたはずだから、約三分の一が撃墜されたか、少なくとも戦闘不能となった計算だ。
空戦の常識から言えば、この時点で惨敗である。
そして劣勢にある飛燕たちを、三十機ほどのF6Fたちが追い込んで、さらに数を減らそうとしていた。
戦況を見てとった金本の背に緊張が走る。味方の飛燕たちはすでに動きが鈍くなっている。このまま戦闘が続けば、全滅する。しかし、金本たちが加勢したところで、不利な戦況をひっくり返せる見込みは薄かった。
F6Fたちの飛び方は統率が取れており、飛燕たちとの距離が近くなるまで、むやみに機銃を射たない。戦闘慣れしている証拠だ。
「――全員で切り込むぞ!」
黒木の命令が無線をかけ抜け、金本の耳元に届く。
「ただし、絶対に深追いするな。最初の一撃で敵はひるむ。その機会に乗じて、らいちょう隊の連中を逃すぞ。それから俺たちも全速力で離脱する」
黒木の判断は理にかなっている。すでに息切れ状態の八機に、「はなどり隊」十三機が合流しても、数の上からして不利を覆うべくもない。力量の優れた敵が相手ではなおさらだ。被害が出ない内に逃げ出して体勢を整えるのがこの場合、最善の方法だった。
黒木を先頭に、ジュラルミンの燕たちは編隊を組んだまま、時速六百キロを超える速度で飛ぶ。会敵するはるか手前で、敵の動きに変化が生じた。F6Fたちは数の上で圧倒的優位にある。一、二機を見張りに回すことなど造作もなく、金本たちの接近にも気づいたのだ。もっとも、それ自体は予測範囲内の反応だ。
「らいちょう、らいちょう! こちら、はなどり隊の黒木だ」
鋭い声が無線を走り抜ける。部隊は違えど、同じ調布の飛行戦隊の所属だ。使用する電波の周波数帯は同一で、問題なく無線は通じた。
「こちらで敵を引き受ける。その間に降下して、当空域から離脱しろ」
黒木が言い終えた時には、すでにはなどり隊の全機がF6Fの輪の中に突入していた。
金本が見ている前で、F6Fたちがサッと三つの集団に分かれる。七、八機から成る左右の集団が、横転しながら左と右へそれぞれ旋回する。
突っ込んできた飛燕たちの後ろへ回り込む気だ。
背後につかれるより前に、味方を逃して自分たちも逃げ切れるか?――彼我の位置を把握した金本は、「ギリギリいける」と思った。
だがその時、肝心のらいちょう隊から、耳を疑う通信が入った。
「――離脱だと? このまま、やられっぱなしで逃げるなぞ恥だ。らいちょう隊、これより合流して反撃にうつる!!」
――やめろ…!
金本は心の中で叫ぶ。ほとんど同時に、金本の心中を代弁するかのように、
「このボケナス! 尻尾巻いて、とっとと、逃げろっつってんだよ!!」
無線に黒木の怒号がこだました。
「てめえのトリ頭には、指先ほどの脳みそもつまってないのか!? この…――」
罵倒の言葉が、雑音と機関銃の音にかき消される。
一撃離脱という黒木が立てた当初の目論見は、この瞬間、決定的に破綻した。
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